153系の思い出「山陽路快速」

前回の記事の最後に触れたとおり、今回は153系最晩年の山陽路快速に関する思い出を語ってみようと思います。

 

僕は153系の急行列車や新快速ブルーライナーに乗ることは出来ませんでしたが、153系自体には一度だけ乗ったことがあります。

いや、厳密に言うと一度だけ乗ったことがあるような気がします。

というより、乗っていたら良いなあという願望(^-^;

そんな曖昧模糊な頼りない記憶を元に、153系最晩年の山陽路快速の思い出を語ってみようかと思う次第です。


まずはざっと概要を。

1975年(昭和50年)の山陽新幹線博多開業に伴い、山陽本線の岡山・大阪発着の昼行特急・急行は全廃されます。

それによって急行運用から外れた153系は、一部は電化間もない房総地区のディーゼル急行の置き換え用に転出し、残りは広島地区(岡山-下関)の快速運用の任に就くこととなります。

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(「鉄道ピクトリアル」2018年4月号P7より抜粋)

 

これが今回の話の主役である153系の山陽路快速なわけですが、この山陽路快速の153系も1980年代に差し掛かると、新快速ブルーライナー同様、車両の老朽化が目立ってきます。

また、この頃から広島地区では、普通列車の輸送体系改善のためにフリークエントサービス(書籍によってはフリーケントサービスと表記)という等間隔高頻度のダイヤ導入が検討されるようになり、その整備のためも含めて新製車での古い車両の置き換えが計画されます。
そして、最終的には115系3000番台を新製投入して153系や古くなった一部の111系が取り替えられることになり、1982年(昭和57年)11月のダイヤ改正において広島地区の153系は全廃という運びになるわけです。
一方、広島地区から153系の一部が転出した房総地区でも、1982年(昭和57年)11月のダイヤ改正により、153系が運用から撤退しており、東京口京阪神地区など他の線区で運用されていた153系もこの頃までにはすでに定期運用から退いています。

厳密には1983年(昭和58年)まで中京地区でまだ運用が細々と残っていたようですが、1982年(昭和57年)は事実上の153系終焉の年とも言えるのかもしれません。

 
ここからは私事になりますが、父の実家が広島県の大竹で、子ども時代は毎年のように夏休みなどに家族で大竹に帰省していました。
僕にはこの帰省というイベントが本当に毎年の楽しみでした。
というのも、祖父母や親戚に会えるということはもちろんですが、帰省するために普段はあまり乗れないような列車に乗ることが出来たからです。
新幹線に乗れるのも大きな魅力でした。

僕にとってはそんなスペシャルな列車に乗れる興奮と常にセットになっていた帰省という一大イベントでしたが、一度大竹から山口県の方へ祖父母と家族で一緒に行ったことがありました。
どういう目的で行ったか今となっては定かではないのですが、山口には父方の叔父の一家が住んでいて、冬休みに大竹に帰省して年末年始を過ごした後、山口の叔父の家に遊びに行こうという話になったのだと思います。

その時に山陽本線の大竹駅から小郡駅(現在の新山口駅)まで乗ったのが快速列車で、それが件の153系の山陽路快速だったのではないかというわけです。


いろいろと記憶を手繰り寄せてみると、その快速列車に乗ったのは1982年(昭和57年)1月頃だったはずで、時期的にはまだ153系が運用されていたことになります。

この時のことは記憶がかなりあやふやで怪しいところですが、大竹駅に快速列車が到着した際に見た電車の前面は、153系の特徴である全面オレンジ色だった気がするのです。
当時はまだ車両の形式などの知識は無かったし、急行形と近郊形の区別さえもよくついておらず、湘南色に塗られた電車は皆113系(ちなみに当時の僕は113系京阪神地区で快速として運行されていたことから「快速電車」と呼んでいた)だと思っていたくらいです。
だから、よく見慣れた113系の塗装とは異なる前面の塗装がかなり奇異に感じられたし、そういう記憶が確かにあるのです。

この辺り、もう1歳くらい年齢を重ねていれば、もう少し記憶もはっきりしていたに違いないのですが……。

 

その日の行程は、午前中に大竹駅を出発して昼過ぎに小郡駅に到着という具合だったと思います。

乗ったのが快速列車だったのは確かで、途中駅の通過があったこともはっきり覚えています。

その辺の所をもう少し詳しく確かめてみたいと思い、1980年(昭和55年)の時刻表を当たってみました。

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少々見ずらいかと思いますが、この画像はJTBパブリッシングの1980年(昭和55年)10月号の時刻表復刻版から抜粋したものです。

(この記事を書くためにわざわざ購入しました)

次の大規模改正が1982年(昭和57年)11月なので、同年1月頃なら広島地区はまだ概ねこのダイヤで運行されていたと推定します。

この時刻表のページ一番左側の列車が当時僕が乗ったと思われる快速列車です。

列車番号3123M、10時25分広島発14時16分下関着の快速)

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この列車を見てみると、大竹駅を11時2分に発車し小郡駅に12時58分に着いています。

これなら時間的にも自分の記憶とも何となく辻褄が合う気がします。

 

もっとも人間の記憶というのは当てにならないもので、もしかしたらかなり記憶違いをしている可能性も大ですが……。

あと、当時115系3000番台投入など車両の整備は1981年(昭和56年)から段階的に行われていたようで、快速列車が必ずしも153系で運行されていたとは限らないようです。

その辺り、もう少し詳しくしっかりと検証したいところではありますが、取り敢えず今は願望も含めて153系の快速列車に乗ったということにしておきたいです。

 

ちなみに、当時のことで比較的はっきりと覚えていることがあります。
前々日だかにけっこうまとまった雪が降って、車窓から見える家屋の屋根には少し雪が残っていたことと、当日は良く晴れていて、途中、車窓から目にした日光がキラキラ反射している瀬戸内海がとても美しかったことです。 

車内も幾分音が静かであったと記憶しています。

(153系等の急行形は車両両端のデッキと座席のある客室が仕切られているので、その遮音効果によるものだったとも考えられるか……)

座席はもちろんボックスシートでした。

ともあれ、車窓を流れゆく風光明媚な瀬戸内の風景を眺めながらの旅情溢れる楽しい乗車体験だったことは確かです。

 

153系は僕にとって世代的には辛うじて手に届いた伝説に彩られた車両です。

全盛期の昭和三十年代には、特サロとサハシ(ビュフェ車)2両ずつを編成に組み込んだ長大編成で東海道を駆け抜け、ビュフェ車では寿司カウンターが営業され大盛況だったと言います。

全盛期当時の写真を見るにつけ、そんな夢のような話が実際にあったのだと感嘆しきりですが、晩年は高度成長期を経て社会状況も大分変わり、急行列車自体も衰退の一途を辿り、153系の置かれた状況は尻つぼみ的な寂しいものだったようです。

それでも、晩年当時の153系やそれを含めた急行形の車両は、今となっては古き良き時代の汽車旅情緒を当時に伝えていた貴重な存在だったようにも思えます。

その後、そのような急行形というスタイルの車両が急速に廃れていくようになったのは、世の必然だとしても、非常に惜しむべきことに思えます。