「色彩を持たない多崎つくる……」で村上春樹デビューをしてみた

前回の記事からまた少し時間が経ってしまいました。

週1ペースで記事をアップしたいとは思うのですが、つい日々の生活にかまけてしまい気持ちがブログから離れてしまうもので……。

 ということで、今回は連休中でもあるし、ちょっと気合を入れて村上春樹の長編小説『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』について語りたいと思います。

(多少のネタバレも含むので注意!)

最後の方で、少し鉄道に関する話にもなります。

 

先日、村上春樹の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を読みました。

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この作品は、2013年(平成25年)に文藝春秋から出版された村上春樹13作目の長編小説です。

粗筋はざっくり言うと(かなりざっくりだが)、主人公の多崎つくるが大学時代に高校時代からの友人仲間から突然関係を一方的に切られてトラウマを負い、十六年の歳月を経てから恋人に促され、その出来事の真相を探るべくかつての友人仲間に会いに行くというもの。

心に傷を負った一人の青年が、傷を抱えつつも成長し、いつしかその傷を負う原因となった体験と正面から向き合って、それを乗り越えていくまでの心の軌跡を辿った成長と快癒の物語と言えそうです。

 

ところで、これまで村上春樹の作品はほとんど読んだことがありませんでした。

というか、村上春樹に限らず現代作家の作品自体ほとんど読んできていません。

過去の自己紹介の記事で文学が好きだったなどと書きましたが、自分が読んだのは近代から現代にかけて(時代的には明治から昭和の太平洋戦争後辺りまで)の作家で、その中でもさらに限られているので非常に限定的な文学体験しか経てきておらず、文学が好きだったなどと言うのは本当におこがましい限りなのですが……。

つまり、僕は村上春樹に関しては、特にアンチというわけでもなく、ほとんど関心が無かったというのがこれまでのところ。

それが何故村上春樹を読もうかと思ったというのには、ちょっとしたきっかけがありました。

それは偶々目にしたあるAmazonレビューです。

 

四、五年程前に非常に話題になったAmazonレビューがあります。

それは村上春樹の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』に対してのもので、レビューアーはハンドルネームで「ドリー」という人で、レビュータイトルは「孤独なサラリーマンのイカ臭い妄想小説」

ドリー氏は後に『村上春樹いじり』という本まで出しているそうですが、このレビューで彼は、村上春樹の特徴とされるキザとも言える文体や比喩表現と、主人公をはじめとする登場人物の鼻につくという「リア充」ぶりと「オシャンティー」ぶりを、これでもかというくらいに愚弄しているわけです。

 個人的に村上春樹の作品に思い入れは全く無かったし、そのネームバリューと作品の騒がれ方には多少の反発心さえあったくらいで、さらには、どちらかと言うと冴えなくて所謂「非リア」的な青春時代を過ごしたという自覚がある自分としても、特に腹を立てることもなく確かにそうだよなと共鳴できるレビュー内容に思え、「じゃあ、そんなにツッコミどころが満載であるならちょっくら冷やかしで読んでみるか」というのが、村上春樹の作品を読んでみるきっかけになったというわけです。

 ようするに、ドリー氏のレビューにまんまと釣られてしまったわけです。

 

ただ、村上春樹の作品は『色彩を持たない多崎つくる……』が全くの初めてではなく、まず1987年(昭和62年)に新潮文庫から出された『螢・納屋を焼く・その他短編』という文庫本の短編集を読んでみました。

何故これにしたかと言えば、単純にいきなり長編を読むのはしんどいと思ったからです。

(最近は面倒くさくてなかなか長編小説を読む気になれない)

そこで、取り敢えず短編を……ということでこれを選んでみたのですが、結果、村上春樹って結構面白いじゃんというのが短編集を読んだ時の素直な感想でした。

確かにドリー氏の言うように、文体にしても登場人物の言動にしてもキザでオシャンティーだなとは思いました。

僕には全く馴染みのないワインやらウイスキーやらの名まえだとか、ジャズやクラシックの曲名、レコードタイトル、演奏家の名まえなどが頻繁に出て来て、またそれが確かに洒落っ気たっぷりで鼻に付くのです。

しかし、読んでいるうちにその独特な文体と世界観にするすると引き込まれ、特に『納屋を焼く』という短編に強烈な印象を受けました。

これは村上春樹を読んだ人は大抵思うことかもしれないけど、村上春樹の作品の文体ってとにかく湿っぽい情緒性が一切排除されていてドライでクール。

だけど、そこには何となくどこかに血なまぐさい激情の渦が潜んでいそうな不穏さも感じさせるものがあって、そのような文体で描かれる世界は非常に謎めいていて、暗喩的で暗示的で、ちょっとナンセンスでもあり、「なるほど、これは嵌る人は嵌るだろうし、世界中でも読まれるわけか」と感銘を受けた次第です。

 そういう自分なりの下準備を経て、ようやく長編の『色彩を持たない多崎つくる……』を読んでみようということになるわけですが、それでも読み始めはまだ多少冷やかしの気持ちが残っていました。

ドリー氏のレビューでのツッコミを念頭に読み進めて行ったのですが、徐々にキザとも思える比喩表現も主人公の「リア充」ぶりや「オシャンティー」ぶりもほとんど気にならならないどころか村上春樹的世界の中ではごく自然なものに思えて来て、読む姿勢は至って真剣になって行き、気づけば作品の世界に完全に入り込んでおりました。

そして、時間も忘れて一気に読破。

 

つまり、僕は村上春樹ワールドに存分に酔いしれ、それを堪能したということです。

もちろん、それでも鼻に付くような場面や表現はあったし、「そりゃねぇーだろ!」的なツッコミを入れたい場面もありました。

例えば主人公の夢の中でのセックスの描写。

村上春樹の作品にはセックスの描写なんかもけっこう頻繁に出てくるようなのですが、『色彩を持たない多崎つくる……』でも、主人公のつくるが度々見る性夢の中でのセックスの描写が目を惹きました。

そして、その描写が僕には少々執拗で具体的すぎるように思えたし、またその性夢の結末が「ええーっ! なんじゃこりゃー! そう来るのか!」 という感じなのです。

ただ、それでも、夢って実際はそういうものなのかもしれないと思い直させる説得力もありました。

まあ、夢って時に驚くほど感覚的に具体的現実的で、かつ、エログロナンセンスだったりもして、普段の自分では全く思いもつかないようなあり得ない展開や状況を演出しますからね。

内容の如何は問わず、そういう夢の体験なら誰にでもあるとは思います。

そういう夢の掴みどころのない不可思議さもここでは描かれていたのかなと今では解釈している次第なのですが……。

 

村上春樹の作品は『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』と先に挙げた短編集を読んだだけなので、所謂村上春樹論的なもの語ることはとても出来ません。

ただ、村上春樹の作品は、読むと作品について語りたくなる謎解きの要素がかなりあるようで、僕もいろいろと語りたい気分になりました。

『色彩を持たない多崎つくる……』でも、例えば、作中に出てくる灰田という人物(主人公つくるの大学時代唯一の友人)は非常に謎めいているのですが、彼が一体何者で、作品の中で彼の存在にどういう意味があったのかとか、読んだ人は大抵皆考えたくなるのではないでしょうか。

この作品に関していろいろググってみると、感想や論評がいろいろ出てきますが、それだけこの作品には作品について語りたくなる要素があるということなのだと思います。

もちろん、これは村上春樹の作品に限らず、優れた文学作品全般に関して言える事だと思いますが……。

中には精神分析の観点から述べた学術的な考察もあったりして、心理学を少し学んだ自分としてはそれが最も面白くしっくり来ました。

 (興味のある方はこちらをどうぞ)

「『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』の精神分析的考察 —グループ心性とコンテイナーの機能—」 木部 則雄

 

自分としては個人的な印象や感想を述べるに留めておきますが、物語が進んで行くにつれて、特に後半つくるが過去に自分を一方的に関係から切り離した友人たちに会いに行くところから、彼の自己防衛的ともいえる構えや気取りが少しずつ解けていくような印象を受けました。

そして、終盤、主人公のつくるが友人の一人と会うために最終的に赴くことになった最後の巡礼の地とも言えるフィンランドから帰ってきてから、恋人の沙羅に対してのアプローチが傍目には大分稚拙になるのが印象的でした。

夜中の四時にいきなり電話して愛の告白をしてみたり、 後日会う約束をするのだけど、待ち切れなくて夜中にまた唐突に電話をかけてみるものの沙羅が出る前に切ってしまったり、さらには、それに対してかけ返してしてきたのであろう沙羅からの電話のコールにあえて出なかったりと、一人相撲的な駆け引きめいたことをしてしまう始末。

つくるはフィンランドに行く前に、沙羅が見知らぬ中年男と二人で楽しく談笑しながら歩いている場面を偶然目撃したりもしていたのですが、そのことが気になってヤキモキもしている様子だし。

でも、誰かを本気で求めるようになると、大抵皆こんな風になるのではないでしょうかね。

(ボクニモチョットオボエガアリマスヨ……)

なんというか、そこには、それまでのどこか一歩引いたところから世界を眺めているような、少し浮世離れしたクールでオシャンティーな多崎つくる君はおらず、微笑ましくなるほど人間味ある平凡な一個の男の姿があるように思いました。

僕はそこにある種魔法が解けてしまったような一抹の寂しさを感じたりもしたのですが、多崎つくるもようやく人心地を取り戻せたということなのかもしれません。

 

今回、村上春樹の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を読んで思いがけない嬉しいこと(作中で)もありました。

それは、物語の中で「鉄道」が結構重要な役割を果たしていたことです。

実は、主人公の多崎つくるは幼い頃から駅で列車の発着や人々の動きや流れを眺めているのが好きで、大人になってからは駅舎を作る仕事をしているという設定なのです。

これが物語を通してかなり重要なアクセントになっていたことは確かです。

物語の最後の方で、多崎つくるがJRの新宿駅甲府・信州方面へ行く特急列車の発着の光景を眺めながらいろいろと思いに耽っている場面があります。

そこで、定刻通りに発着する列車や人々の動きや流れを眺めながら、満ち足りた穏やかな気もちになったり、そこが自分の勤める鉄道会社の駅でないにも関わらず誇らしさを感じたりするのです。

実は個人的にここの場面が一番好きで、一番ほっとする場面でもあるのですが、ここは多崎つくるが自分の人生の原点に立ち返った場面のように僕には思えたのです。

これは私事になりますが、ここの場面は子ども時代の鉄心が復活したここ最近の自分の心境とも多少シンクロしているようにも思え、ちょっとした「縁」めいたものさえ感じてしまいました。

 

 駅は無数の様々な人生が交錯する場所で、多崎つくるがそのような場所をハード面から支える仕事をしているというのは、彼の「色彩」を比喩的に示していたようにも思います。

多崎つくるは高校時代から周囲の「色彩豊かな」友人たちと比較して自分を色彩を持たない空虚な入れ物のような存在と感じて生きてきたのですが、「色彩を持たない」というのは、言うまでもなく多崎つくるの無個性という主観的な自己認識の比喩なのでしょう。

また、「色彩を持たない」というのは彼の実際の個性の特徴も幾らか示してもいるのかもしれません。

多崎つくるは自分を関係から切ったかつての友人仲間と会っていく中で、友人たちが彼を「失って」から急速にバラバラになってしまったと知らされます。

多崎つくるはそこで駅(駅は一時的、あるいは、疑似的な「ホーム」の比喩とも言えるのかもしれない)のような役割を果たしていて、そして、それが本来の自分の個性だったことをそれまでの遍歴の末に発見できたのかもしれません。

 

……とまあ、そんなことをいろいろと考え語りたくなるなかなか良い読書体験でした。

本当はまだまだ語り足りないのですが、これ以上は収拾がつかなくなり記事アップの見通しが立たなくなりそうなのでこの辺にしておきたいです。

僕としては作中で鉄道がけっこう重要なアクセントとして出てきたのが意外で嬉しかったですね。

作中には「列車は見慣れたE257系だ。新幹線の列車のように人目を惹く華麗さはないが、彼はその実直で飾りのないフォームに好感を持っていた……」なんて文まであって、まさか村上春樹の作品の中でE257系にまで触れられるとは思ってもいませんでした。

もう、僕の中で村上春樹の好感度が急上昇しましたよ(笑)

 

『色彩のない多崎つくる……』を読み終えてから、ドリー氏のレビューを改めて読んだのですが、少しでもそのレビュー内容に共鳴してしまった自分がとても恥ずかしく思えます(笑)

ただ、紛れもなくそのレビューが村上春樹を読むきっかけにはなったので、ドリー氏には感謝しています。

 

ちなみに、本ブログタイトルである「無色透明」は今回の記事で取り上げた『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を意識したものではありません。

どちらかというと、誰色にも何色にも染まるつもりはないぞという意思表示(特に政治的に)という積極的なものです。

まあ、僕も多崎つくるのように自分を「無個性」だとは常々感じてきたし今も感じていますけどね。

 

今回はそんなところで。