急行「ときわ」号の思い出

久々の記事です。

 

いろいろと語りたいことはありつつも、文章を書くのに恐ろしく時間がかかってしまう性質なので、書こう書こうと思いつつなかなか書けずに前回からかなり時間が経ってしまいました(^^;

 

さて、今回はかつて常磐線を走っていた急行「ときわ」号の思い出について語ろうと思います。

 

僕は子どもの頃から「急行」という種別に非常に愛着を持っていました。

(ここでいう「急行」とは私鉄などで運行されている運賃のみで乗れる無料急行のことではなく、かつて国鉄やJRで優等列車として運行されていた有料の定期急行列車のこと)

そのきっかけとも言えるのが急行「ときわ」号の乗車体験だったと思います。

急行形の車両の列車に乗る機会はこれ以降も何度かあったのですが、急行形の車両で運行される定期急行列車に乗ったというのはこの時が唯一で、その時のことを、遠い記憶を頼りに振り返ってみようかと思う次第です。

 

それは1984年(昭和59年)かその前年のことだったと思います。

急行「ときわ」号は1985年(昭和60年)に全廃されてしまうので、かなり運用末期の頃です。

当時、僕の一家はまだ兵庫県の西宮市に住んでいましたが、常磐線はけっこう馴染みのある路線でした。

というのも、母の実家が茨城県水戸市にあったので、夏休みなどに母の実家に帰省することもあったからです。

そんな帰省の際には、新大阪から東京までは新幹線の「ひかり」号に乗り、東京から上野までは山手線か京浜東北線、そして、上野から水戸までが常磐線普通列車というのがお決まりの行程でした。

上野から水戸までは普通列車で大体2時間少々。

上野までの行程を合わせると6時間程の長旅になったのですが、上野-水戸間の行き来は特急「ひたち」号や急行「ときわ」号を利用することはなく、当たり前のように普通列車でした。

両親の考えとしては、新大阪-東京間の新幹線にはスピードによる時間短縮というかなり大きな利便性があるのに対して、在来線の特急・急行の場合は上野-水戸間程度の中距離では所要時間にそれ程大きく差が出ないのでわざわざ利用するまでもないだろうということだったのかと思います。

書籍などでは、「新幹線開業以来、在来線の特急列車は大衆化され……」的な文言をよく見かけるのですが、少なくとも僕の一家にとっては、在来線の特急は依然として贅沢な存在であり、急行でさえも少し高嶺の花だったというわけです。

 

そんな、なかなか手の届かなかった急行「ときわ」号でしたが、幸いにも一度だけ乗る機会を持つことが出来たのです。 

どういう経緯で乗ることになったのか僕は全く覚えていないのですが、水戸から西宮の自宅へ戻る途中につくば市の方へ立ち寄ったのですが、その際いろいろ道草を食っているうちに最寄りの土浦駅に向かう時間が予定より遅れたようです。

そのため、東京から乗る予定だった新幹線の時刻に間に合わなくなる可能性が出てきて、急遽急行「ときわ」号に乗って行こうという話になったらしいです。

 

「ときわ」号に乗り込むところからは僕もよく覚えています。

この時僕はまだ特に急行好きではなかったし、むしろ特急の方に憧れを抱いていたのですが、初めて乗る在来線の優等列車ということで、列車到着前からかなり気持ちが高まっていたのを覚えています。

そして、土浦駅のホームやってきたのは、このクリーム色とローズピンクの車体が特徴的な交直流急行形電車の急行「ときわ」号。 

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常磐線 街と鉄道、名列車の歴史探訪』株式会社フォト・パブリッシング (2017年) P117より抜粋

 

列車が到着しドアが開いて車内の乗りこむと、まず客室の端から端まで整然とボックスシートが並ぶ光景の壮観さに目を惹かれたものです。

席に着いてみると、シート自体近郊形のそれよりも横幅が広くゆったりとしていることや、ボックス中央の窓際に設置されているテーブルも近郊形の物と比べて大振りであることにも気づき、乗り慣れた近郊形では感じたことのなかった優等列車の風格と、どこか懐かしい汽車旅の雰囲気を子どもながらに感じました。

この頃はもう急行形と近郊形の区別はつくようになっていたので、これが急行形の車両なのかという感慨もそこにはありました。

 

土浦を発車してから上野に着くまでは50分程度でしたが、本当にあっという間でした。

途中の停車駅は我孫子のみで、フルスピードで次々と小駅をすっ飛ばしていく様は圧巻の一言。

スピードはかなり出ているように感じたし、モーター音やジョイント音など走行音の響きも近郊形とは大分趣が異なるように思いました。

なかなか上手く言い表せないのですが、走りが近郊形にくらべて少し余裕が感じられ、重厚で滑らかにも思えました。

僕はもう大興奮で、終始窓にかぶりついて車窓を眺めていました。

 

この時のことで、昨日のことのように鮮明に記憶している場面が一つあります。

上り方面に走行していると三河島を過ぎてから大きな右カーブに差し掛かるのですが、僕はちょうど進行方向に向かって右側の座席の窓側に座っていたので、そのカーブに差し掛かると編成前方の車両がよく見えたのです。

夏の午後の陽ざしに照らされたクリーム色とローズピンクの車体が輝くように美しく、改めて今自分は急行「ときわ」号に乗っているのだと実感し、嬉しくなったものです。

 

上野に着いてから、予定していた新幹線発車の時刻も迫って来ていたのでゆっくり感慨にふけっている暇はありませんでした。

それでも僕は家族と一緒にそそくさと山手線のホームに向かう中、何度も振り返り自分の乗ってきた急行「ときわ」号の姿を確認しては名残を惜しんだものです。

この時、親にせがんで記念写真一枚くらいさっと撮ってもらえばよかったと悔やまれます。

 

この興奮から間もない1985年(昭和60年)3月のダイヤ改正で、急行「ときわ」号は姿を消します。

この時のダイヤ改正は東北・上越新幹線の上野開業という歴史的なものだったのですが、そういう華やかな話題の陰で、急行「ときわ」号を含めた上野口の急行列車が一斉に姿を消したのも印象的でした。

それは来る新しい時代と去り行く古い時代が交差していくようでした。

僕は急行「ときわ」号の乗車体験で、急行列車という存在に惚れ込んだわけですが、すでに優等列車としての「急行」は歴史的な役割を終えようとしていて、後戻りすることのない黄昏の時代に入っていたのです。

(確かに僕が乗った際もガラガラだったような気が……)

この時の急行「ときわ」号廃止は本当にショックで悲しかったです。

廃止に至る事情はいろいろあったのだろうけど、子ども心に「なにも全部無くさなくったって……」という率直な気持ちがあり、その気持ちは未だに尾を引いている有様なのです。

 

急行「ときわ」号の乗車体験から十年後でしょうか。

僕は受験生となっていて、茨城大学を受験するために、しばらくぶりに上野の常磐線のホームに立ったことがあります。

この頃は鉄道への関心を失っており、普段電車に乗ったりしてもほとんど何の感慨も抱かなくなっていたのですが、この時は子ども時代の鉄道への情熱をふと思い出し、急行「ときわ」号のことも思い出しました。

同時に、急行「ときわ」はもう走っていないのだという喪失感も込み上がってきました。

それは自分にとって大切な何かが失われているような気さえしました。

この時からさらに二十年以上経ちましたが、そうした感覚は未だに自分の中にあるようです。