2018年4月号の鉄道ピクトリアルは153系電車の特集でした。
117ページに及ぶ充実の内容で、非常に読み応えがありました。
ということで、今回は153系に関する個人的な思い出を語ってみたいと思います。
といっても、昭和三十年代に東海道筋で準急・急行列車として活躍していた全盛期をリアルタイムでは知らず、新快速ブルーライナーを主とした晩年の姿を僅かに記憶に留める程度なので、薄く曖昧な記述となる事を予め断っておきます。
新快速は、京阪神区の速達サービス向上の為に、1970年(昭和45年)に京都-西明石間に設定されたのが始まりでした。
設定当初は近郊形の113系での運用でしたが、1972年(昭和47年)の山陽新幹線岡山開業時に大阪-岡山間の急行運用が廃止されことで捻出された153系に置き換えられます。
この時に、淡いクリーム色の地にブルーの帯というスマートな塗装デザインを施され、ブルーライナーという愛称で定着していくことになるわけです。
運賃のみで冷房を完備した急行形の速達列車に乗れるということで、新快速ブルーライナーは大変好評を博したそうですが、1970年代の終わり頃には早くも設備の老朽化や陳腐化が問題となり、新型車両での置き換えが計画されます。
鉄道ピクトリアル2018年4月号によれば、新快速は1980年(昭和55年)1月より新型の117系への取替が始められ、同年9月には完了しているとのこと。
つまり、ブルーライナーは1980年(昭和55年)の9月頃まで走っていたということになります。
ここからは私事になりますが、僕は1978年(昭和53年)から1985(昭和60年)年まで兵庫県の西宮市に住んでいました。
1978年はまだ三歳で記憶がほとんどないため、僕が実質ブルーライナーを見たと言えるのは、記憶がかなりはっきりしてくる1979年から1980年の運用最末期の頃と言えます。
まさに滑り込みセーフでブルーライナー見ることが出来たわけです。
当時、僕の一家は父が務める会社の社宅を住いにしていて、国鉄の最寄り駅は甲子園口でした。
夏休みに親の実家へ帰省する時などは、新幹線に乗るために甲子園口から各駅停車で新大阪に向かったりしました。
その際、駅での待ち時間中などにブルーライナーが通過していくのを目にしたことを今でもはっきりを覚えています。
また、当時、日曜日によく父と武庫川の河川敷を歩いて鉄橋を通過していく列車を眺めに行ったりもしたのですが、そんな時にもブルーライナーの姿を見た記憶があります。
颯爽と走り去っていくブルーライナーの姿は幼心にも強く印象に残りました。
四歳とか五歳くらいの男の子なら大抵は乗り物に興味を持ち鉄道が好きになると相場が決まっていますが、ご多分に漏れず僕もそうだったし、僕の周りの男の子たちもそうでした。
そして、そういう子どもたちの憧れの的は、特急列車だったり新幹線だったりブルートレインだったりしたのですが、僕たちの場合、そこに新快速も加わっていました。
関西では、僕たちのような幼い子どもたちの間にも、当時から新快速は速くて格好良いというイメージが浸透していたように思います。
それだけ、沿線の住民にもたらしたブルーライナーのインパクトが大きかったということなのかもしれません。
そんな新快速ブルーライナーですが、残念ながら乗る機会はありませんでした。
117系になってからの新快速はけっこう乗る機会があったのですが、ブルーライナーは乗った記憶がないのです。
そのことに関して一つ忘れられない思い出があります。
新快速が新型の117系に置き換えられてから間もない頃だったでしょうか。
家族で姫路城を観に行くことになりました。
三ノ宮までは西宮北口から阪急電車で行き、三ノ宮から国鉄の新快速に乗り換えるという話しになりました。
余談ですが、当時、父はあまり国鉄を利用したがらず、利用するのは本当に必要最小限という感じでした。
それは、住いが国鉄の甲子園口駅よりも阪急の西宮北口駅の方が距離的に近かったということもあったし、何よりも国鉄は運賃が割高だったからです。
昭和50年代は、国鉄が抱えていた巨大債務が社会問題となっていた頃で、大幅な運賃の値上げなども行われていました。
もちろん、僕はそんな大人の事情を知る由もなかったのですが、当時父が「国鉄は高いからなあ…」とぼやいていたことは記憶しています。
そんなこともあって、僕にとっては、ブルーライナーはおろか、国鉄自体ちょっとした高嶺の花だったわけです。
そういうことで、未だ新快速が117系に置き換えられたという事実を知らない僕は、それはもう胸を高鳴らせながら153系のブルーライナーを待っていたわけです。
ところが、やってきたのは見慣れぬ顔の117系。
「なんで? 新快速とちゃうやん!」
その時、僕はそんな風に口にしたのかもしれません。
その後、父から新快速は新型車両に置き換えられたという事実を聞かされ、人生で味わう初めての大きな喪失感(大げさ)を胸に、僕は117系に乗り込んだわけです。
ただ、117系も名車なんですよね。
117系は当時の大阪鉄道管理局が、競合する私鉄に対抗すべく国鉄の威信をかけて送り込んだ新型車両だったわけで、転換クロスシートがずらりと並んだ特急列車と見紛うばかりのピカピカな車内には否が応でも気持ちが高まりました。
そんな117系の新快速は沿線の利用者にも非常に好評だったようで、利用した時はいつも混んでいたように思います。
117系には何度もお世話になったし、思い出深い車両の一つなのですが、やはり新快速=ブルーライナーと刻印づけされている僕は、未だに新快速と言えば真っ先に153系のブルーライナーの姿を思い浮かべてしまうのです。
運用最末期のブルーライナーに乗ったという人の話によれば、車両はかなりガタピシで、けっこう揺れも酷かったといいます。
それでも、颯爽と駆け抜けていくブルーライナーに、一度で良いから乗ってみたかったです。
今回はここまで。
次回も153系について少し語りたいと思っています。
153系最晩年の山陽路快速について、幾らかの願望も含んだ淡い記憶を辿って行こうと思います。