今から20年前の2006年の春に北陸で一人旅をしたことがありました。今回はその時の思い出話を書こうと思います。
当時、私生活でいろいろあり、大変苦しい時期でした。旅をすることで何とか人生を好転させる良いきっかけを掴みたかったのだと思います。また、この頃一時的に鉄道へ想いが再燃したりしたのですが、鉄道への想いというのは僕にとって少年時代への郷愁と結びついていて、辛い時に度々立ち現れるものであった気がします。
何故場所を北陸にしたのかと言うといくつか理由がありますが、まず一つに富山に学生時代にとても仲の良かった友人が暮らしていて、久々に会おうという話があったからです。もう一つは、北陸はまだ行ったことがなく、子どもの頃に図鑑でよく目にした雷鳥号、はくたか号、北越号、加越号といった北陸本線を走る特急列車にいつか乗ってみたいと思っていたことを思い出したことがあります。さらには、北陸の有名な温泉地へ行ってゆっくり温泉に浸かってみたかったというのもありました。そういうことで、北陸への旅を計画したわけです。
20年前の話なので記憶も所々曖昧なのですが、行きは旅費を抑えるために鉄道は使わずに夜行バスで富山まで行ったかと思います。先述の学生時代の友人は当時のJR魚津駅近くに住んでいて、富山駅に着いた日の朝に駅まで車で迎えに来てくれて、そのまま一緒に富山の名所を巡ったりしました。その道中、黒部峡谷鉄道のトロッコ列車に乗ったりしましたが、これは僕のたってのリクエストでした。

黒部峡谷鉄道のトロッコ列車(2006年)

トロッコ列車から望む黒部ダム(2006年)
夕方には魚津駅近くの居酒屋へ行き、夜遅くまでいろいろ語り合ったりもしました。その夜は一旦友人とは別れて宇奈月温泉のビジネスホテルに泊まりました。
友人は次の日に金沢の方を案内してくれるつもりだったらしいのですが、僕はすでに新潟の月岡温泉に行くと決めていて、宿も予約していたので、金沢の案内はまたの機会ということになりました。
何故、新潟へ行こうと思ったのかと言えば、当時好きだったタレントが新潟出身だったからです。それだけの理由。月岡温泉にした理由も特段深いものはなく、新潟の温泉地について調べていて偶々目に付いたからです。
ということで、次の日ホテルをチェックアウトすると、月岡温泉に向かうべくJRの魚津駅に向かいました。この時も友人がビジネスホテルまでわざわざ迎えに来てくれて魚津駅まで送ってくれたのでした。
友人とは魚津駅で別れ、そこから鉄道で新潟の方へ向かったのですが、この時に乗った列車が特急北越号でした。北陸本線を走る特急列車に乗るというのは旅の目的の一つで、2006年当時は北陸新幹線開業前で、北陸本線は北越号、はくたか号、サンダーバード号、しらさぎ号など特急列車が頻繁に往来する全国有数の特急街道でした。
魚津駅ではご当地の駅弁でも買って移動の列車内で食べるつもりでいましたが、生憎駅弁を売っているような店は見つけられませんでした。魚津駅は特急の停車駅だったので、当然駅構内で駅弁くらい売られているものだと見込んでいたのですが、甘かったです。仕方なく駅近くのコンビニでお昼を調達することにしました。せっかく富山まで来てコンビニ飯かと味気ない思いでしたが、コンビニでは鱒寿司の握りが売られたりしていて、そこはコンビニといえども地域色があるのだと多少の気休めにはなりました。
魚津から乗った列車は1053Mの特急北越3号新潟行きです。10:36金沢始発で、魚津は11:34発、終点の新潟には14:19着というダイヤでした。

特急北越3号ダイヤ(金沢‐直江津)(2006年)
「全国小型時刻表」(株)交通新聞社 2006年2月1日 518頁

特急北越3号ダイヤ(直江津‐新潟)(2006年)
「全国小型時刻表」(株)交通新聞社 2006年2月1日 630頁
使用車両は485系で国鉄時代から変わらずも、塗装はJR時代になってから施された白の地に青とターコイズブルーの帯という所謂「上沼垂色」で、国鉄時代とは異なるもの。

出典:ミツキ-2368, CC BY-SA 3.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0>, via Wikimedia Commons
しかし、子どもの頃に散々憧れた国鉄時代から変わらぬ前面形状を見ると大いに気持ちが高まったものです。この旅ではデジタルビデオカメラを持参していて、道中時々カメラを回していたりしたのですが、残念ながらその時の北越号は映像にも画像にも残しませんでした。今思えば画像なり映像なり撮っておくべきだったと後悔しきりです。
月岡までは北越3号で新津まで行き、そこから羽越本線の普通列車に乗り換えるという行程だったかと思います。北越3号の魚津から新津までの走行距離は213.4㎞で、所要時間は2時間30分でした。自由席に座りましたが、座席が随分と年季が入っているように感じられたのを覚えています。タバコの焦げ跡があるような箇所もあったような……。JR時代になってから、国鉄時代に作られた特急形車両のアコモデーションはリニューアルされたりしていたようですが、僕の乗った自由席車のインテリアは国鉄時代からあまり変わっていなかったような印象でした。僕個人としてははその方がノスタルジーを感じられて嬉しかったのですが。
魚津から乗ってしばらく車内は比較的空いていた気がします。途中からはけっこう乗客も増え、幹線特急らしい活気ある雰囲気を感じた記憶があります。お昼時には魚津駅前のコンビニで買った鱒寿司の握りを食べたりしましたが、駅弁ではないことが少し悔やまれました。車内販売で駅弁を買うことも可能だったとは思うのですが、何せ不慣れな初めての独り旅で、しかも社会不安障害気味の僕にとって、車内販売員を呼び止めて駅弁を買うなどという行動は心理的なハードルが高すぎたのです。
北越号に乗車していた2時間30分はあっという間だった印象です。列車内ではひたすら車窓を眺めていただけだと思うのですが、初めて見る北陸の車窓風景に飽きることがなかったのでしょう。

特急北越3号の車窓から望む北アルプス(2006年)
新津からは羽越本線の普通列車に乗り換えて月岡まで行きましたが、何故かこのあたりは記憶がほとんどありません。羽越本線は電化されていますが、新津-新発田(しばた)間は列車の本数も少なく、使用されていた車両はディーゼル車だったはずで、この時乗った車両は、2026年現在では希少種になったキハ40であったような気がします。
月岡駅からは記憶がはっきりしてきます。月岡駅はいかにもローカル線の駅といった佇まいの小駅で、周囲に少し民家が立ち並ぶ以外は水田が広がるばかりのほとんど何もない所でした。この時乗ってきた普通列車の月岡到着時刻に接続して月岡温泉まで行くバスが出ていたのですが、もたもたしているうちにバスが出発してしまったことを憶えています。バスは1時間に1本くらいは出ているだろうと軽く考えてのんびり構えていたところもあったのですが、以後バスは出ていなかったか、次の便までかなり時間が空いていたかと思います。
タクシーを使うという手も考えましたが、あいにく駅前にタクシーが1台も停まっていなかったので、歩くことにしました。事前にホームページで確認していた月岡温泉までの案内マップから、20分くらい歩けば着くだろうと見込んでいましたが、これも甘かったですね。50分ほどかかったかと思います。4㎞弱程度の大した距離でもなかったのですが、荷物の旅行カバンを抱えながらの歩きはけっこうハードでした。ただ、この時は季節的には暖かくなり始めたくらいの頃だったし、悪天候にも見舞われることもなかったので、その点は今思えばラッキーだったと思います。
ちなみに2026年現在は、月岡駅から月岡温泉行きのバスは出ていないようで、月岡温泉に行くには新潟駅や新発田駅から出ている月岡温泉直通のシャトルバスの利用が無難でしょう。
月岡駅から温泉街まで県道(300号)脇の歩道をとぼとぼと歩いて行ったのですが、最初は道路の両側に水田が広がるばかりで、この先本当に温泉街があるのかかなり不安でした。月岡温泉の温泉街は、月岡駅から向かって山間の手前の平地に位置していますが、温泉街は山間部にあるというイメージがあったため、遠目ではその先に温泉街があるような風景には見えなかったのです。しかし、しばらく歩くと、ちょっとした集落に差し掛かり、ぼちぼち宿泊施設の看板などが目に付くようになり、県道の先には温泉街のホテルや旅館などが立ち並ぶ姿が見えてきました。
月岡温泉で泊まった宿は「蘭亭」というこじんまりした温泉旅館でした。ここを選んだ理由はインターネットで月岡温泉の宿をいろいろ調べていたときに、家庭的な暖かい手作り感が感じられて、ここでなら気負うことなくゆったり過ごせそうな気がしたからです。ただ、閑散期だったためか予約の電話をかけた時は1軒も予約が入っていなかったようで、1名での予約はすんなり受け付けてもらえませんでした。営業コストととの兼ね合いで、ある程度の宿泊人数を確保する必要があったのでしょう。そのため一旦は保留になったのですが、その後数名のグループ客の予約が入ったとのことで蘭亭の方から連絡をくれて予約が成立しました。
そんな経緯もあり、一抹の不安は拭えませんでしたが、蘭亭に到着すると女将さんをはじめ従業員の方は感じ良く迎えてくれたので、ここを選んで正解だったと胸を撫で下ろしました。蘭亭は最初に思い描いていた通りの家庭的で暖かい雰囲気の風情ある旅館で、それはこの旅で一番の幸運でした。
新潟の月岡温泉は全国有数の硫黄泉で、部屋に案内されるときも、女将さんから強い硫黄分の影響で部屋のテレビが勝手についたり消えたりすることがあるけど幽霊の仕業じゃないです……などといった説明があったことを覚えています。実際に宿泊中テレビが勝手についたり消えたりする現象が起きました。
その日宿泊していた男性客は僕くらいだったようで、男湯の露天風呂は貸し切り状態で、誰にも気兼ねなくゆっくり湯を満喫することができました。湯は源泉かけ流しで、女将さんの説明通り硫黄分を多く含んだいかにも温泉らしい良い湯で大満足でした。
夕食も海の幸と山の幸をふんだんに使用した料理でとても美味しかったです。


この時お酒もかなり飲みました。瓶ビールを3~4本くらい飲んで、それ以外に焼酎や日本酒もけっこう飲んだのではないでしょうか。今はお酒は控えていますが、当時はかなり飲んでいました。部屋までお酒や料理を運んでくれた若い仲居さんからもハイペースな飲みっぷりを心配されるほどで、ふと太宰治の『八十八夜』という短編小説を思い出したりもしていました。もっとも僕の場合は『八十八夜』の笠井一さんのように、げろを吐くまで酔い潰れることもなく何事も起きないのですが……。食事が終わると特にすることも無いので、また露天風呂に浸かりに行ったりして、その夜は大人しく布団に入ったかと思います。
次の日の朝のことはどうしても思い出せないのですが、多分もう一度くらい露天風呂に浸かったかと思います。朝食がどうだったのかは思い出せません。
蘭亭をチェックアウトしたのは朝の10時くらいになるのでしょうか。お見送りをしてくれた女将さんから、帰りの旅のお供にと名物の月岡饅頭を手渡されたことを覚えています。

その後は他の観光地に寄ることもなくまっすぐ帰路に就きました。蘭亭の女将さんから教えてもらった月岡温泉から出ているシャトルバスに乗って、白新線の豊栄(とよさか)駅に向かったかと思います。2006年当時は月岡温泉から豊栄駅までのシャトルバスが出ていました。(2026年8月現在は休止中のようです)
その後、豊栄から普通列車で新潟まで行き、上越新幹線に乗りかえたかと思います。この辺りも記憶が定かでなく、長岡あたりで乗りかえたような気もします。上越新幹線に乗るのは初めてだったし、新幹線というものに乗ること自体がかなり久しぶりだったのですが、そのことに関しては特別な感慨は抱かなかったように思います。新幹線の車内はけっこう混んでいて落ち着かなかった記憶があります。また、この時は3列シートの窓側席に座っていたのですが、一度トイレに立った際に廊下側に座っていた年配の会社員らしき男性に舌打ちされたりと、新幹線内での時間はあまり愉快ではなかった印象です。
自宅の最寄り駅である土浦に着いた頃は夕方近くになっていたでしょうか。上野から土浦までの電車内ではすぐ寝落ちして居眠りをしていたのですが、土浦に着いたとき首がかなり痛くなっていました。それまで電車で居眠りしても寝違えるようなことは無かったので、体の違和感を少し意識したことを覚えています。実はこの旅の1ヶ月後に再生不良性貧血という病気で入院する羽目になるのですが、旅をしていた時点でけっこう病に蝕まれていたようで、その影響もあった気がします。旅の最中にも、それまで経験したことのないようなめまいや息切れを感じることがあって気にはなっていたのですが、その時はまさか再生不良性貧血などという病気に罹っているとは夢にも思わなかったです。
こうして、ほろ苦さと若干の体への不安を抱えつつ北陸一人旅を終えたのでした。
2005年から2006年にかけては個人的にとても苦しい時期でした。当時は心療内科に通ったりもしていて、メンタル面の不調で仕事を辞めたりもするなど辛いライフイベントが重なった時期でした。旅の途中に撮った画像も色合いがどんよりと暗めで、これは無論使用していたカメラのせいでもあるのですが、僕には当時の自分の心象風景が表れているようにも感じます。
そのような「人生お先真っ暗」といった心持ちの中、なんとか良いきっかけを掴みたいと思って計画したのが北陸一人旅でした。この旅で何か良いきっかけを掴めたかと言えば、何も掴めなかったというのが正直なところです。旅が終われば、相も変らぬどうしようもない自分自身と日常に向き合う日々が待っているだけでした。さらには、すでに再生不良性貧血という重病(2006年当時は難病指定されていた)にも冒され、1か月後には入院するという事態になりました。ちなみに、その後の入院生活は1ヶ月半に及び、退院後も通院での服薬治療が続き、服薬が必要ないレベルまで寛解するのに1年以上かかりました。
そんなどん底の時期に行った北陸一人旅でしたが、僕にとっては初めて独力で計画して行った旅で、今当時のことを思い出してみると「いい旅だったなあ」という感慨が湧いてくるのです。追憶は美化されがちということを差し引いても、学生時代の友人と会っていろいろ語り合ったり、子どもの頃にあこがれた黒部峡谷鉄道のトロッコ列車や北陸特急に乗ったり、暖かい雰囲気の趣ある温泉旅館で温泉をゆったり満喫出来たり、なかなかいい旅だったと思います。社会不安障害気味だったナイーブな僕にとってそれは大冒険でもあり、単なる観光という以上の大きな体験だったことは間違いありません。
あれから20年経ちます。自身の体感としてはつい最近の出来事にも思えるのですが、この間に無くなってしまったものや変わってしまったものもあり、20年という歳月の重みも感じます。月岡温泉で宿泊した「蘭亭」はもう廃業して無くなっているようです。いつ頃まで営業されていたなど詳細は不明ですが、お世話になった女将さんも当時すでにけっこうご高齢だったと思うので、今も健在なのかは分かりません。
魚津から新津まで乗った特急北越号も、その後の北陸新幹線開業によって廃止されてしまいました。北越号で使用されていた国鉄特急形の485系もこの20年の間に引退済みで、北越号も走っていた北陸本線の敦賀‐直江津間(北越号は金沢-直江津間の運転)は現在JRから切り離され、ハピラインふくい、IRいしかわ鉄道、あいの風とやま鉄道、えちごトキめき鉄道といった第三セクターに分割されています。
今思えばこの時に鉄道趣味に目覚めていたら、青春18きっぷなどを使ってもっといろんなところを巡っただろうと思うし、それによって楽しみも広がったと思います。人生も少しは変わったかもしれません。ただ、この時の僕の目は全く違うものに向けられていて、旅が終われば鉄道へのノスタルジックな想いもすぐに薄れてしまいました。人生そんなものかもしれません。人にはその時期で心を動かされる旬の物事というものがあるのです。
当時僕は30代にさしかかって間もない頃でしたが、やはり若かったと思います。いろいろ健康上の問題や精神的な不安を抱えつつも北陸を一人旅しようと思い立ち、それを実際に計画して行動に移したわけで、我ながらよくやったと思います。
また、当時は20年後なんてまだまだ先の未来に思えたものです。今当たり前のように存在しているものや身近に居る人達が、いつか無くなったり居なくなったするなどということも切実な実感を伴って意識することはありませんでした。すでに10代や20代のような若者とは言えない年頃になっていましたが、未だモラトリアムの真っ只中で、過去を振り返るより将来を案じることの方が多かった気がします。まだ若く将来に目を向けるからこその「お先真っ暗」という心持ちだったのかもしれません。
ここ数年は、鉄道を始め、いろいろなものを通して、今当たり前にあるものもいつかは無くなるということを実感を伴って意識するようになりました。そのため、触れられるものは触れておきたいし、一人旅というものも出来るうちにまたやっておきたいと思う今日この頃です。鉄道や車を使って日帰りで遠出するくらいなら今もやっていますが、泊まりがけの旅行というのはしばらくしていません。2006年に北陸を旅した時に会った学生時代の友人ともあれ以来直接会っていなかったりするので、会えるうちに会っておきたいですね。
次に北陸を旅するとしたら、前回行かなかった金沢方面にも行ってみたいでしょうか。実は二十歳くらいまで本籍が石川県にあったのですが、行ったことは一度もないのです。石川県は一昨年の能登半島地震のこともあるし、どんな所なのかずっと気になっていたので、一度訪れてみたいところです。
以上、長々と書き連ねてきましたが、2006年北陸一人旅の思い出話はこの辺で終わりにしようと思います。