太宰治と鉄道

前回まで鉄道に関するテーマでの語りが続きましたが、今回はちょっと趣向を変えて文学について語ってみたいです。
といっても、記事のタイトルから分かるように鉄道に大いに関係する話ですが。

 

学生時代、太宰治が好きで、太宰の作品ならほぼ全部一通りは読んだと思います。
太宰の作品の中にはけっこう鉄道が出てきますが、太宰作品に熱中していた学生時代は鉄道への関心を失っていた頃なので、そういう部分には全く着目することが無かったです。

ということで、今はそこに少し着目してみて太宰治の作品を取り上げ語ってみたいと思う次第です。


『晩年』という太宰治の初期の作品集に収められている『列車』という短編があります。
これは昭和8年(1933年)2月「サンデー東奥」に懸賞小説として掲載された作品で、太宰治というペンネームで発表した初めての作品であると言われています。
話の粗筋は、語り手である「私」が、語り手の友人の汐田から国元に送り返されるという憂き目にあっている汐田の恋人であるテツさんという少女を、わざわざ上野駅まで妻を引き連れて見送りに行くというもの。
小説は冒頭からこのように始まります。

「一九二五年に梅鉢工場という所でこしらえられたC五一型のその機関車は、同じ工場で同じころ製作された三等客車三輌と、食堂車、二等客車、二等寝台車、各々一輌ずつと、ほかに郵便車やら荷物やらの貨車三輌と、都合九つの箱に、ざっと二百名からの旅客と十万を越える通信とそれにまつわる幾多の胸痛む物語を載せ、雨の日も風の日も午後の二時半になれば、ピストンをはためかせて上野から青森へ向けて走った。時に依って万歳の叫喚で送られたり、手巾(ハンカチ)で名残を惜まれたり、または嗚咽でもって不吉な餞(はなむけ)を受けるのである。列車番号は一〇三。」

 

今改めてこの文を読んでみて、まず気になったのは記述が史実通りなのかだったので、少し調べてみました。

C51形の機関車ですが、これは実際に存在した蒸気機関車です。
1920年代から1930年代にかけて主要幹線で使用された初の国産機関車。

特急「燕」号やお召列車なども牽引したことでも知られ、所謂名機と呼ばれる当時の日本を代表する蒸気機関車です。

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(『小学館の学習百科図鑑31 特急列車』株式会社小学館 1982年 P129より抜粋)

ただ、梅鉢工場で造られたというのは事実とは異なるようです。
これはWiki情報ですが、C51形は1919年(大正8年)から1928年(昭和3年)にかけて浜松工場、汽車会社、三菱造船所で製造されたとのことです。
梅鉢工場とは、1933年(昭和8年)当時、大阪の堺市に本社のあった鉄道車両メーカー「梅鉢鐵工所(後の帝國車輛工業)」の工場で、当時は主に客車と路面電車が製造されていたそうです。
なので、客車関連は梅鉢工場で造られたという記述は事実である可能性が大いにあると思います。


列車番号103の列車というのも実際に存在しています。
103列車は上野と青森を結んだ急行列車の一つで、1930年(昭和5年)10月改正時のダイヤでは、上野を14時30分に発車し翌日の朝6時20分に青森に到着となっています。

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(『さよなら急行列車』JTBパブリッシング 2016年 P63より抜粋)

上の画像の表によれば、103列車の編成は二等と三等の客車で成り、二等寝台車と食堂車(和食)も連結されていたようです。
また、当時の急行列車には郵便車や荷物車も連結されるのが基本で「三等客車三輌と、食堂車、二等客車、二等寝台車、各々一輌ずつと、ほかに郵便車やら荷物やらの貨車三輌と、都合九つの箱に……」という部分も概ね史実通りとい言えそうです。

ということで、C51形が梅鉢工場で造られたという記述以外は大体史実通りではないかと思います。
おそらく、この小説を書くに当たり太宰治もそれなりに調べたのだろうなと思いますが、それ程徹底もしていなかった感じですね。


太宰治が鉄道好きだったかどうか気になるところですが、おそらく鉄道への思い入れは大して無かったのではないかと思われます。
夏目漱石などは割に鉄道好きだったそうで、作中にも汽車旅での場面がしばしば出て来て、何となく鉄道好きを匂わせるような箇所もあるのですが、太宰治の場合はあまりそういう印象は感じられず、作中に於ける鉄道の扱いは淡白とも言えます。
むしろ、『列車』などでは、鉄道への(というより103列車へか)恨み節とも思わせる言葉が冒頭の文から続いて書かれてあったりもします。

「番号からして気持ちが悪い。一九二五年から今まで八年も経っているが、その間にこの列車は幾万人の愛情を引き裂いたことか。げんに私が此の列車のため、ひどくからい目に遭わされた。」

もっとも、小説という虚構の世界の中での語りなので、作中の語り手の言葉がそのまま作者の思いを表しているとは限らないのですが、鉄道好きなら虚構といえども多分こういう書き方はしないのではないかと思いました。
太宰治の場合、後の様々な作品や伝記的事実から察するに、鉄道での汽車旅は辛い状況や苦い思い出に付随することが多かったのかもしれません。

 

太宰治が生きたのは明治の終わりから昭和の戦後間もない頃までですが、特に太宰治が作家として生き始めた昭和の戦前期は、鉄道にとって戦前における鉄道黄金時代と言われた時期だそうです。
鉄道網が日本全国だけでなく海を越えて大陸にまで張り巡らされるようになり、今や鉄道は人々の移動手段としてすっかり定着し、技術や旅客サービスも飛躍的に向上した時代。
鉄道は近代化の象徴で、軍需物資や軍事要員の輸送など国策にも大きくかかわる国の基幹産業とも言われ、人々の移動手段としてのマイカーや飛行機もまだまだ考えられなかった時代。
人々の移動や物流などにおいて鉄道の重要度は今とは比べ物にならない程大きかったことは何となく想像がつきます。
そんな時代、鉄道は当時を生きた作家にとっても、好む好まざるに関係なく、人生に切っても切り離せないものだったに違いありません。
おそらく太宰治にとっても。


と、そんなことを考えながらここまで記事を書いて、ふと気になったことがありました。
『列車』の中で太宰治は何故作中の登場人物テツさんを「テツ」という名前にしたのかなと。
これはひょっとして鉄道に掛けたのだろうかと。

太宰治にも鉄道愛はけっこうあったのかもしれませんね。