休日おでかけパスで乗り鉄デビュー②普通列車グリーン車に乗る

前回からの続きです。

大分時間が経ってしまいましたが(^^;

 

前回、185系特急「踊り子」号で東京から小田原まで列車旅した内容を書きましたが、この日(5月6日)のもう一つの目的は普通列車グリーン車を長時間乗り通すことでした。

ということで、今回は後半の普通列車グリーン車乗車編です。

 

首都圏内の長距離運用のグリーン車付き普通列車は幾つか考えられますが、休日おでかけパスの指定エリア内で、出来れば始発から終点までという条件を満たしているのは、横須賀線総武快速線を走る久里浜-成田空港間の普通・快速列車だろうということで目星を付けました。

久里浜から成田空港までは走行距離にして約150km、所要時間にして3時間10分の行程。

3時間10分と言えば、かつて新幹線0系「ひかり」号が東京-新大阪間を結んだ際の所要時間。

(現在はもう少し短縮されているし、「のぞみ」なら2時間半弱ですが)

そう考えると、長いですよね(^^;

 

以上のことを念頭に、僕は小田原から久里浜に向かいました。

まず大船まで戻って、そこから横須賀線に乗り換えて久里浜まで行くという行程になります。

ここでは普通列車の普通車を乗り継いで行きましたが、大船-小田原間は「踊り子」であっという間に着いた印象なのに対して、普通列車だとけっこう長く感じましたね。

時間としては12,3分程度の違いですが、そこそこ混んでいる普通車で立ちっぱなしというのはやはりしんどい(^^;

 

大船に到着したのが11時36分、そこから横須賀線に乗り換えです。

列車を待っていると、特急「成田エクスプレス」号が。

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実はE259系を生で見るのは初めてだったり。

それから少し経つと、逗子止まり列車が到着とのアナウンス。

取り敢えず、それに乗ることのしたのですが、列車が到着した時僕は少し驚いてしまいました。

というのも、てっきり横須賀色の帯が入ったE217系が来るものと思っていたのですが、来たのが湘南色の帯が入ったE231系だったからです。

一瞬ホームを間違えたのかと思いました。

恥ずかしながら、湘南新宿ラインを経由する宇都宮線系統の普通・快速列車が、横須賀線に入線して走ることを今回初めて知りました。

しばらく鉄道から離れていた間に、昨今の鉄道事情にはすっかり疎くなっていたもので、この辺りの状況は把握していませんでした。

それにしても、高崎線宇都宮線の普通・快速列車の運行体系は複雑怪奇の様相を呈しますね。

かつては東海道本線東北本線高崎線の列車の運行は基本的に東京と上野で分断されていたので、今より不便だったかもしれませんが、すっきりはしていたわけです。

しかし、湘南新宿ラインと東京上野ラインが通じた今は、便利になった一方で、何やら複雑になってしまってわけが分からないです。

これを運行管理するのも並大抵のことではないのでしょうね。

 

逗子どまりの普通列車で逗子まで行ったら、そこからは久里浜行のE217系の電車に乗ります。

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しかし、時代は変わったなあ。

かつての横須賀色の113系ばかりが行き来していた頃からは隔世の感があります。

しかも、このE217系も登場から二十年以上経つというのだから、僕も歳を取るわけだ……。

 

久里浜に着いたのは12時55分。

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次の久里浜発から成田空港への直通列車は13時44分。

それまで1時間近くあるため、改札を出て駅周辺を少しブラブラすることにしました。

時間的にお腹の空く時間帯でしたが、お昼は駅弁を買って普通列車グリーン車の中で食べると決めていたのでしばし我慢。

 

JR久里浜駅から数十メートル先には京浜急行線の京急久里浜駅があります。

そちらの周辺界隈の方が栄えていて、 久里浜の中心街は京急久里浜駅を基点として広がっている感じですね。

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JRの久里浜駅はちょっと街の外れにあるような感じ。

でも、僕は好きです。

かつてはここも蒸気機関車が行き交っていたのであろうなと思わせるほんのり昭和風味な雰囲気が残っているからです。

 

ブラブラしているうちに、時間は割とすぐに経ち、13時44分発成田空港行きの列車の時刻が迫ってきました。

ここで僕は駅弁を買おうと思ったのですが、JR久里浜駅には駅弁を買えるようなお店がありませんでした(^-^;

また、無知を晒すようですが、駅弁は久里浜駅で買えるものと思い込んでいました。

行楽需要もある横須賀線の終着駅だったし……。

大船駅逗子駅では買えたようですが、こういうことは予め調べておくか、東京駅や小田原駅のような確実に売っているような大きな駅で買っておくと無難だったかも。

詰めが甘かったですね。

まあ、これは今後の教訓とします。

ということで、仕方ないので、駅の改札口傍にあったNewDaysでお昼を調達。

お弁当は売り切れていたので、お握りとサンドイッチを買いました。

 

そして、さあグリーン券を購入という段で、僕はつまらぬことを考えてしまいました。

明日は仕事だなあ……という(^-^;

成田空港まで行けば約3時間。

グリーン車の座席に座ると言えども、長時間列車に揺られているというのはそれなりに身体の負担になります。

さらに、その後は、成田線を経由して常磐線我孫子駅まで行き、そこから普通列車荒川沖駅まで帰らなければなりません。

身体が決して丈夫ではない僕は、体力的、体調的に少し心配になってきました。

もちろん、次の日も休みなら迷わず予定通りに行ったのですが……。

結局、予定を変更し、品川から常磐線普通列車に乗り換えて、そのまま普通列車グリーン車を乗り継いで荒川沖駅に帰ることにしました。

途中、乗り換えはあるけど、それでも3時間程度普通列車グリーン車に乗り通すことには違いありませんからね。

(結果として、この選択は少々皮肉な形で正解となったわけですが……)

ということで僕は土浦駅までのグリーン券を買うことにしました。

今回は最終的に土浦駅の一つ手前である荒川沖駅で降りなければならないのですが、これがこの日の最後の行程になるし、出来るだけ長い時間グリーン車に乗っていたいということで、休日おでかけパスの指定エリアギリギリの土浦駅まで一旦乗り通すことにしました。

値段は同じだしね。

 

なお、普通列車グリーン券は、みどりの窓口、駅改札口前にある券売機、または、ホーム内に設置されているSuica専用の券売機で買い求めることが出来ます。

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 上の画像の場合、上の小さな切符が駅改札口前の券売機で買った時のグリーン券、下の大きな切符がみどりの窓口で買った場合のグリーン券になります。

Suicaの場合はSuicaにグリーン券の情報が書き込まれます。

僕は今回ホーム内の設置してあるSuica専用の券売機で購入しました。

今思えばみどりの窓口で記念になる切符を買えば良かったと思いますが……。

なお、料金は2018年5月6日現在で以下のように設定されています。

(見えづらくて申し訳ないです)

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車内料金と事前料金とで、また、平日と土休日での料金の設定が異なり、土休日の事前料金 が最大で780円と最も安くなります。

また、同一方向であれば別の普通列車グリーン車に乗り継ぐことが可能です。

つまり、51km以上の料金を払えば、同一方向ならどこまでも乗り継げることになります。

座席は基本的に自由席で、着席の保証はありません。

満席でデッキ内で立っている場合も料金が必要となります。

ただ、満席の場合など利用を取りやめることは可能で、グリーンアテンダントにその旨を申し出れば対応してくれるそう。

 

13時35分頃、成田空港駅行きとなる列車が到着。

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もちろん、乗るのはグリーン車

首都圏の普通列車グリーン車ですが、現在は全て二階建て車で、トイレが付いている車両と乗務員室が付いてる車両が2両ユニットで編成に組み込まれています。

E217系場合、サロE217サロE216となります。

普通列車グリーン車に二階建て車が導入され出した頃は、二階建て車と従来の平屋車がペアを組むというパターンでしたが、E217系からオール二階建てとなったようです。

かつてのオール平屋時代は最大で128名だった着席定員もオール2階建ての現在は180名と大幅に増えました。

 

サロE217E216を含む首都圏普通列車グリーン車の車体構造は基本的には同じで、座席部は共通して大きく三つの区画に分けられます。

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画像上から順に二階席部分、一階席部分、平屋席部分です。

二階席と一階席の区画は車両の中央部に位置し、平屋席は両端部に位置しています。

現在はどの普通列車グリーン車も、座席は二階席が青い柄、一階席と平屋席が赤紫っぽい柄となっています。

E217系が登場した当初、E217系グリーン車の座席はグレーを基調としたシックなデザインだったそうですが、現在は画像にあるような具合に統一されているようです。

 

今回、二階建て車が導入される以前の平屋時代の雰囲気を少しでも味わいたいと思っていたので、平屋席を選びました。

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平屋席のメリットはなんといっても頭上の空間が広々としていて荷台が設置されているということです。

二階席と一階席はスペースの都合上荷台が設置されていません。

人気がある区画はやはり二階席部分になるのですが、以上の理由で平屋席が良いという人もけっこう居るのだそう。

グループ利用や荷物が多い時などは平屋席が良いかもしれませんね。

今回僕が乗った際も、途中おそらく成田空港へ向かうと思われるスーツ姿のビジネスマンらしき男性が一人乗って来たのですが、荷台にキャリーケースを乗せていました。

あと、足の不自由な方なども、平屋席の方が利用しやすいでしょうかね。

 

座席に着くと、Suicaでグリーン券を購入した場合、頭上に設置されているカードリーダーの読み取り部分にSuicaをかざすと、Suicaに書き込まれた情報を読み取りランプが赤から緑に変わります。

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これが料金を支払い済みという証明となり、検札は必要なくなります。

(画像は常磐線E531系のグリーン車でのもの)

切符でグリーン券を購入した場合、このSuicaシステムが使えないのでランプは赤のままで、乗務しているグリーンアテンダントによる検札が行われます。

検札後にランプは赤から緑に切り替わります。

なお、席を移動する場合や別の普通列車グリーン車に乗り継ぐ場合などは、Suicaであればもう一度読み取り部分にSuicaをかざすことでランプが赤に戻ります。

その上で、移動した席、もしくは乗り継いだ別の普通列車グリーン車の座席でまた頭上のカードリーダーにかざすことで、そこのランプが赤から緑に切り替わります。

最初に移動前の座席のランプを赤に戻していなければ、ここでランプが緑に切り替わらないので注意。

切符の場合は、座席を移りたいときはその旨をアテンダントに伝えるか、列車を乗り継ぐ場合は検札の際に乗り継ぐ旨を伝えれば良いかと思います。

自由席は着席保証がないのがデメリットですが、その分こうした融通が利くところはメリットと言えると思います。

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やはり、午前中に乗った185系の普通車の座席に比べると、足元に余裕が感じられますね。

6cmの違いなのですが、車内のような限られた空間での6cmの差はけっこう大きいです。

E217系グリーン車の場合、座席の土台が片持ち式で、窓側席は土台で足元が塞がれてしまうのが難点といえば難点か。

ただ、シートピッチが広いのであまり気にはなりませんでした。

座席自体の座り心地は、時期的に後に登場したE231系E531系のグリーン車の座席よりも良いかも。

 

13時44分に成田空港行の列車は定刻通り発車。

この時点で僕の乗っていた平屋席の区画は完全貸し切り状態。

発車すると、早速買っていたお握りを頬張りました。

最もホッとし、最も気持ちが高まる瞬間です。

幸せです。

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久里浜-逗子間の車窓からは、途中トンネルがあったりと東京近郊とは思えない緑豊かで長閑な風景が続きます。

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鎌倉辺りの風景はやはり悠久の歴史を思わせる風光明媚さを感じますね。

グリーン車からそんな景色を悠々と望めるのはなかなか贅沢だと思いました。

 

逗子までは乗客も少なめで、僕の乗っている区画などは完全に貸し切り状態でしたが、逗子、鎌倉と行楽客と思われる乗客が列車に乗り込んでいました。

やはりここも外国人観光客の姿がちらほら目立ちます。

歴史的なスポットはどこも外国人からは人気があるようですね。

 

大船までくると、風景も都会的になってきて乗客も増えてくる印象。

先ほど言及した成田空港に向かうと思われたキャリーケースを持ったビジネスマンらしき男性も、大船で乗ってきました。

大船から成田空港へのアクセスは特急の「成田エクスプレス」号がありますが、高めのA特急料金設定なので、急ぎでなければ横須賀・総武快速線の普通・快速列車のグリーン車を使うというのも一つの手なのかもしれませんね。

 

横浜を出るともう東京はすぐそこという感じがします。

東海道本線を走る列車に乗っているのと横須賀線を走る列車に乗っているのでは、何となく車窓から見える風景の印象も変わって来るから不思議です。

あと、一つ気になったのは、横須賀線は横浜から品川まで停車駅が多いと感じました。

現在は横浜、新川崎、武蔵小杉、西大井、品川となっていますが、以前は横須賀線もここらは快速区間で停車するのは新川崎だけだったような気がします。

やはり、これも湘南新宿ラインが繋がったことと関係があるのでしょうかね。

 

横浜を出た頃は、昼時を過ぎて日も少し傾いてくる時間帯で、雲の隙間から射す淡い午後の陽ざしに少し眠気を誘われ、まどろみそうになりました。

ここで寝落ちして千葉方面まで乗り過ごしてしまったりすると少々厄介だと思ったので、何とか堪えましたが、この感じが何だかとても懐かしくて、心地良かったです。

少しだけ、子ども時代に憧れていた横須賀線東海道本線普通列車グリーン車(サロ110)に乗っているような気分に浸れました。

 

品川に到着したのが15時3分。

ここでE217系とは別れを告げ、15時17分品川発水戸行きの常磐線普通列車E531系に乗り換えです。

もちろん、乗るのはここでもグリーン車の平屋席。

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常磐線普通列車グリーン車に乗るのは、大分こなれてきた感があります。

なお、普通列車グリーン車は座席指定がないので、出来るだけ始発駅から乗った方が確実に席に座れて良いと思います。

上野から乗る場合は上野始発の列車に乗った方が良いかも。

もっとも常磐線の場合、今のところ平日の通勤時間帯以外ならそうでなくても心配なさそうですけどね(^^;

 

こちらが E531グリーン車内の様子。

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上から二階席部分と平屋席部分。

一階席は意外にもすでに着席している乗客がけっこう居たので、撮影は差し控えました。

E217系グリーン車と比べて車内の雰囲気がちょっと違いますね。

座席の色がこちらの方が濃い目かな。

E531系の方がデビューが遅いので、その分E217系のものより全体的にフレッシュな印象はあります。

個人的には、内壁や扉などの内装のデザインは、E217系グリーン車の方が木目調のものが使われていたりと、少し落ち着いたシックな印象があって好みかも。

E531系やE231E233系の座席の土台は下の画像のように中心部にあります。

これなら、窓側と廊下側共に前の座席下に足を伸ばせるますね。

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また、E531系では座席の後ろにドリンクホルダーや傘立てが新に設けられていたりして、機能面と設備面でE217系グリーン車の座席より若干の進化が見られます。

座席自体の座り心地としてはやや硬めで、E217系の方に軍配が上がるでしょうか。

ただ、この辺は好みに個人差もあるかと思います。

 

列車は15時17分に定刻通り発車。

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品川の車両基地にはE657系(手前)とE531系(奥)の姿が。

この普段見慣れた車両を見ると、ホームに戻ってきたという安堵感があります。

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もう期間が過ぎてしまいましたが、座席後ろに付いている網の収納ポケットにはこのようなキャンペーン広告のチラシが入っていました。

常磐線普通列車グリーン車は2007年の導入から11年経ち、大分定着してきているとは思いますが、二等車時代からの伝統がある東海道本線横須賀線に比べると、乗車率はまだまだ低いようです。

僕が実際に見た所でも、東京駅で宇都宮線高崎線系統の東京上野ラインの普通・快速列車を見ても、グリーン車の座席はけっこう埋まっている印象。

大宮、高崎、宇都宮方面と湘南、横須賀方面を行き来する需要は旺盛のようで、湘南新宿ラインに至っては、グリーン車も常に乗車率が高いようです。

それに比べて常磐線の方はやや空席が目立つ印象。

取手、土浦、水戸方面と湘南方面を行き来する需要は少ないのでしょうかね。

常磐線系統は全て品川止まりです。

一利用者のわがままを言わせてもらえば、常磐線普通列車でも、大船くらいまで足を伸ばすものがあれば面白いんですけどね。

特急形の651系を使った「ぶらり横浜・鎌倉」号という全車指定の臨時快速列車はあるのですが、もう少し気軽に乗れる普通列車があっても良いのかなと。

土休日限定で一日一往復くらいでも良いので、そういう列車があれば是非乗ってみたいところです。

 

常磐線普通列車グリーン車の乗車率が思うように伸びていないと思われる理由として、特急系統が充実しているというのも挙げられそう。

基本的に1時間に2本出ています。
(時間帯によっては3本)
平日なら100kmまで普通列車グリーン車と料金がほとんど変わらないし、速くて全席指定なので着席保証もある。
車両は新型のE657系で普通車の座席も普通列車グリーン車と同等かそれ以上に快適とくれば、わざわざ普通列車グリーン車を利用する動機は薄れるかも。
ただ、特急が停まる駅は限られているし、早く目的地に着くことに拘らなければ100kmを超える長距離利用なら料金的にメリットが出てきます。
僕のように、たまにはゆったり快適に鉄道旅を楽しみたいという向きもあるだろうし。
土休日や100kmを超える長距離利用の場合、特急列車を使うと少し割高に感じられるけど、かといって通勤電車の車内とほとんど変わらない味気ない普通列車普通車の車内で長時間揺られるのもちょっと……という場合の選択肢としても、普通列車グリーン車は大いに有りなんじゃないかと思います。

 

取手駅を出てデッドセクションを通過したらこの日の鉄道旅もいよいよ終盤です。
複々線区間は終わり、車窓風景も幾らか牧歌的になってきます
僕にとってはお馴染みの景色。

この辺りの常磐線の車窓風景は、関東平野の広さをもっとも実感できるのではないでしょうか。

左前方に筑波連峰を望む以外は、視界が遠くへ抜けて行きます。

そして、北へ北へと進むにつれ、北関東特有の少し暗めで色合い深い雰囲気が濃くなっていくように感じます。

常磐線は海側の平野部を通っているので東北本線と比べて勾配線区が少なく、かつては東北本線のバイパス線としての機能も果たし、岩手、青森方面へと向かう数多くの優等列車が設定されました。

今は無き「みちのく」「十和田」「はつかり」「ゆうづる」等の愛称を持つ数々の名列車が駆け抜けた歴史も刻まれているのです。

 

取手を出て交流区間に入る頃になると、安堵感もあるせいか、少し疲労を意識しました。
そして、また眠気が……。
しかし、寝落ちして水戸まで行ってしまったりすると、これまたちょっと厄介なことになりそうなので、意味もなくデッキに出て眠気を紛らわせたりしました。

 

そんなこんなで何とか無事に16時48分土浦駅に到着。
久里浜駅から計約3時間に及ぶ普通列車グリーン車の旅が終わり、幾らかの名残惜しさを抱えつつも下車。
列車はここで前5両の切り離しを行う為しばし停車します。
その間に反対側のホームへ行き、グリーン車をカメラに収めました。 

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まだ旅はこれで終わりではありません。
最後に荒川沖駅に戻らなければなりません。

上り列車が到着するまで少し時間があったので、駅弁のリベンジを果たすべく土浦駅ホーム場にある立ち食いそば屋で軽くかけそばでも食べていこうかと思い立ちました。
(二大鉄道旅グルメと言えばやはり駅弁と立ち食いそばですよね)
が、営業は17時からとのことでまだ準備中でした。
ここで少し待っていても良かったのですが、疲れを感じていたので今回は鉄道旅グルメは断念し、そのまま帰ることにしました。

 

駅から家まで車を運転する時、やけに目がチカチカすることに気づきました。
何時間も車窓を流れる景色を眺め続けるというのは、目には相当負担だったようです。
次第に眼精疲労から来ると思われる頭痛もしてきて、家に着く頃は頭がガンガンに……。
目を休めるために時々目を瞑ったりした方が良かったのかも。
これも、今後の教訓ですね。
家に着いてからしばらくは夕食も食べる気になれず横になっていました。
乗り鉄という慣れない体験は緊張を強いるものだったようで、心身ともに相当に疲れていたようです。
やはり、成田空港まで行かなくて正解でしたね(^^;

 

ということで、この日の乗り鉄は終了。

(家に帰るまでが乗り鉄です)

 

まとめです。

今回、185系の特急「踊り子」号と長時間の普通列車グリーン車に乗ってみて思ったのは、普通列車グリーン車の車内ってこれまで味わったことのなかったちょっと不思議な空間だったということです。

少なくとも僕の感覚ではそうなのです。
従来なら特急列車に乗らなければ座れなかったようなリクライニングシートに座れて、グリーンアテンダントが乗務していて車内販売まで行われているし、特急列車の車内と似ているのですが、乗っているのはあくまで普通列車なのだというその感覚が僕には面白く感じられます。

特急列車は快適性にも配慮されていますが、それでも至上命題はあくまで目的地に早く到達することにあると思います。
おそらくそれは現代では非常に実用的なニーズで、時間に追われているビジネスマンなどが特急列車を利用するというのは決して贅沢な行為ではないと思います。
行楽客にしてもそうかもしれない。
多くの利用者にとって鉄道はあくまで移動手段であって、その移動時間を節約するために余分にお金を払うというのは極めて実利に基づいた選択だと思うのです。
しかし、普通列車グリーン車には特急列車のそういう実用的な側面が無いのです。
目的がゆったり快適な車内空間を提供するということに特化していると言え、それはやはり贅沢なことなのかもしれません。
そのため、特急列車と比べてよりゆったり優雅な時間が流れているように感じられ、それが特急列車とは異なる魅力ではないかと思いました。

 

乗り鉄はなかなか体力と忍耐力を要しますね。

疲れました。

でも、楽しかったです。

めちゃくちゃ楽しかったです。

旅は良いもんですな。

 

近々またやりたいです。

休日おでかけパスで乗り鉄デビュー①185系「踊り子」号に乗る

少し前の話になってしまいましたが、ゴールデンウィーク最終日の5月6日(日)、JR東日本の休日おでかけパスを使って乗り鉄デビューしてきました。

 

乗り鉄なるものの定義は、おそらく「主に鉄道を利用することが目的で鉄道を利用すること」だと思うのですが、その定義によればそれまで乗り鉄をしたことは無いと言えます。

何かの用事のついでにちょっと……ということはあっても、純粋に鉄道を利用することが主な目的で……というのは無かったのです。

つまり、僕もついに禁断の領域へ足を踏み入れてしまったということでしょうか(笑)

ということで、今回はその時のレポートなどを少し書いてみたいと思います。

 

今回の目的は二つ。

一つは185系の特急「踊り子」号に乗ることで、もう一つは長距離区間普通列車グリーン車で乗り通すことです。

185系国鉄時代に造られた最後の特急形電車で、1981年のデビューからはや37年経ち、数年以内に(おそらくオリンピックイヤーの2020年までには)引退も決まっているようで、これは引退の前に是非乗っておかなければと思った次第です。

普通列車グリーン車ですが、最近、用事で東京方面と行き来する際などに利用するようになりました。

その場合、普通列車で大体片道一時間半程度の行程なのですが、グリーン車の座席は普通車の固く窮屈なボックスシートに比べて格段に快適な為か、いつも時間的に少し物足りなさを感じます。

また、普通列車グリーン車を利用するのは片道と決めており(何分あまり贅沢を出来る身分ではないもので……)、疲れている帰路で利用することがほとんどなのですが、その際は大抵夜になっているので車窓をあまり楽しめなかったりもするのです。

そういうわけで、一度、昼間に車窓を存分に楽しみながら飽きるほど長時間乗り通してみたいなという願望がありました。

 

以上、二つの目的と休日おでかけパスの指定エリア内での移動という条件を踏まえ、大まかなスケジュールを立ててみました。

① 荒川沖→東京

② 東京→小田原(185系特急「踊り子」号)

③ 小田原→久里浜

久里浜→成田空港(普通列車グリーン車

⑤ 成田空港→荒川沖

185系特急「踊り子」号に乗るのは行程②の東京-小田原間で、普通列車グリーン車に乗るのは行程④の久里浜-成田空港間。

他は普通列車の普通車自由席を乗り継いで行きます。

本当は行程①③⑤でも普通列車グリーン車を利用したいところでしたが、何分あまり贅沢……(以下省略)

 

ちなみに、出発点は常磐線荒川沖駅でしたが、実は家からのJRの最寄り駅は土浦駅だったりします。

何故荒川沖駅にしたかと言うと、荒川沖駅前には格安で停められる駐車場があるからです。

(なんと駐車料金が24時間まで最大200円という)

ここでもケチイズムを発揮したわけですが、何分あまり贅沢……(以下省略)

 

まず、荒川沖駅指定席券売機で休日おでかけパスと東京-小田原間の自由席特急券を買いました。

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 休日おでかけパスはJR東日本が企画販売しているフリーパスチケットです。

土日祝日およびその他指定日に、東京近郊の指定エリア内におけるJR線の普通・快速列車の普通車自由席が乗り放題になります。

JR線以外にも、東京臨海高速鉄道東京モノレール線が乗り放題になります。

別途、特急・急行券、グリーン券等を購入することで、新幹線を含む(ただし東海道新幹線は除く)特急・急行列車や普通・快速列車のグリーン車に乗ることも出来ます。

東京近郊でいろいろ巡ってみたい時など、かなりお得でおいしいチケットなのではないでしょうか。

このチケットを駅で購入する場合はみどりの窓口指定席券売機で購入可能です。

 

そして、こちらが自由席特急券

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JRの特急料金にはA特急料金とB特急料金が設定されているのですが、185系特急「踊り子」号はB特急料金が適用となります。

区間を走る251系の「スーパービュー踊り子」号はA特急料金適用です。

高崎線の「スワローあかぎ」号や常磐線の「ひたち」「ときわ」号は、これとは異なる料金体系が設定されていて、自由席の設定が無く全車指定席になっています。

何だか少しややこしいのですが、いずれJR東日本の特急料金はスワローあかぎ方式で統一されるのかもしれませんね。

 

それにしても、特急券を買ったのはいつ以来でしょうか。

12年前の2006年(平成18年)に北陸を一人旅したことがあるのですが、その時に特急「北越」号を利用した時以来かも。

その北越号も今や過去のものなのですが……。

 

荒川沖駅から普通列車で出発して東京駅に着いたのが9時半。

東京から乗るのは10時東京始発の特急「踊り子」107号 伊豆急下田行。

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自由席は10両編成中後ろ2両の9号車と10号車の2両のみ。

僕は自由席を取ったので東京駅に着いたらすぐに9番線のホームで並んで待機していました。

すると向かいのホームにこんな列車が。

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4月28日~5月6日に大船-桐生間を185系で運行されていた全車指定席の臨時快速列車「足利藤まつり」号です。

こういう臨時列車に思いがけず遭遇するとなんだか少し縁起良く感じます。

 

10時が近づくとこちらの9番ホームにもいよいよ185系「踊り子」号の入線です。

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やはり、そろそろ引退時期も迫って来ている最後の国鉄型の特急列車ということで、カメラを向けている人の姿がちらほら見受けられましたね。

 

ここで185系電車についての概要を一応少しだけ書いておきます。

デビューは1981年(昭和56年)。

京口の急行「伊豆」号などに使われていた153系を置き換えるために登場しました。

当初は急行形として計画されていたようですが、営業部門からの強い要請により特急形に変更されたと言われています。

153系は間合いで普通列車にも使われていたので、その運用がそのまま引き継がれ、185系普通列車にも使えるようにと設計されました。

そのため、出入口の扉は急行形と同じ広めの幅1000mmで両端に2か所設けられ、座席も当初は転換クロスシートでした。

(座席はJR時代になってからリクライニングシートに交換されています)

いわば、それまでの急行形と特急形の折衷的な設計で、特急形としてはいささかグレードダウンの感が否めず、その点で評価が良くなかったようです。

ただ、クリーム色の地に斜めのグリーンのストライプ線3本という国鉄らしからぬ斬新なデザインはけっこう評判だったようです。

185系はまず急行「伊豆」号としてデビューしましたが、153系の置き換えが完了すると、特急「踊り子」号として走ることになります。

1986年からは「湘南ライナー」としても走るようになり、通勤時間帯の着席需要にも応えます。

一方、上野口では1982年(昭和57年)に高崎線上越線で使われていた165系を置き換えるため、耐寒設備と横軽対策が施された200番台が登場しています。

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(『小学館の学習百科図鑑31 特急列車』株式会社小学館 1982年 P28より抜粋)

1982年の東北・上越新幹線の大宮開業後、上野-大宮間を新幹線リレー号として走りますが、1985年の東北・上越新幹線の上野開業後は特急「谷川」「白根」「あかぎ」号として走ります。

現在は上野口から撤退し、東京口の特急「踊り子」号や「湘南ライナー」として走っています。

 

しかし、よく37年も走り続けたもんですね。

デビュー当時は自分がまだ小学1年生だったこと考えると、本当に時の流れを感じます。

余程造りが丈夫で使い勝手が良かったんでしょうかね。

185系は時に「遜色特急」などとも揶揄され、鉄道ファンにはあまり好かれていない印象でしたが、 37年にも及ぶ期間を第一線で走り続けているのだから、間違いなく名車と言って良いかと思います。

 

さて、いよいよ185系の車内に。

僕は最後尾の10号車に乗りました。

自由席なので早めにホームに並んだのですが、乗車率は東京発車の時点で1割にも満たなかったかな…(^-^;

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出発まで少し車内をぶらりと散策しましたが、初乗りなのどこか懐かしいという(笑)

そこかしこに「国鉄」の面影を感じました。

全体的にごつごつした質実剛健な作りの内装が、僕としては萌えポイントになります。

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特急形としては珍しい窓が開くタイプだったというのも、185系の大きな特徴の一つで、この辺りが「特急形」というより、やはりどこか「急行形」と言った方がふさわしいものを感じますね。

座席のシートピッチはかつての特急形普通車の標準だった910mm。

普通列車グリーン車の970mmに慣れてしまった身としては狭さを感じるかもと思っていましたが、改めて実際に座ってみると思ったほど狭くはなかったです。

ただ、これは体格にもよるのかもしれません。

180cm以上の大柄な人であれば、狭さを感じるのかも。

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また、足元の座席下が塞がっている古いタイプの作りなので、最近の特急形や普通列車グリーン車の座席のように前方の座席下に脚を伸ばすことは出来ないため、幾分窮屈に感じました。

長時間の乗車ではその辺りで疲労の差が出てきそうです。

 

 車内はしっかり手入れされている印象でしたが、さすがにデビューから30年以上経過しているので床や化粧板の色褪せや傷などが所々目立ちます。

(画像ではあまり分からないと思いますが)

 出発前、向かいのホームには今やすっかり常磐線特急の顔となったE657系の姿も。

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やはり、あちらに比べるとこちらは幾分見劣りの感が否めないですね(^-^;

特に鉄道好きでもない一般の客はもっとそう感じているんだろうな。

 

10時になりいよいよ185系特急「踊り子」107号伊豆急下田行の出発です。

否が応でも気持ちが高まりますね。

出発直後、鉄道唱歌のメロディが流れた後に車掌による停車駅と停車時刻の案内放送が始まります。

これもまた旅の気分を高める重要なイベントですね。

特急「踊り子」107号の小田原までの停車駅は品川、川崎、横浜、大船で、ほぼ1時間きっかりの行程。

停車駅はかつての153系急行「伊豆」号のそれが踏襲されていますが、1980年(昭和55年)の「伊豆」号のダイヤを見ると東京から小田原までは平均して1時間15分程度かかっている具合なので、「踊り子」号になってスピードアップはされているわけです。

ただ、現代ではその区間を快速「アクティ」が1時間10分程度で走るんですけどね(^-^;

 

停車駅と停車時刻の案内が終わるとすぐに車内販売員が回ってきました。

またこの車内販売という存在が旅の気分を盛り上げてくれる重要な要素です。

近年は駅中店舗の充実により車内販売を利用する客が減り、採算が取れないとのことから、特急列車でも車内販売を取りやめるケースが出てきているようですが、やはり車内販売は無くならないでほしいですよね。

車内販売員はアニメチックな声の若い女性で、顔つきもそれっぽく眼鏡をかけた可愛らしい方でした。

声優を目指されているのかもしれませんね。

もしかしたら、すでに駆け出しの声優さんで、生活のために副業で車内販売員をしているのかも。

そんな妄想を巡らせていると、背もたれにドスンというちょとした衝撃が……。

車内が揺れた弾みで、販売員さんの押していたカートが、僕の座っていた座席の背もたれにぶつかったようです。

販売員さんは恐縮して謝っていましたが、僕としてはかなりおいしい得した気分になりました。

あのタイミングで何か買うべきだったと今更ながら後悔しています。

 

列車は品川までスピードは控えめでしたが、品川を出ると徐々にスピードアップし、185系の営業最高速度である110km/hまで到達したかと思われますが、さほどスピード感は感じられませんでした。

まあ、僕は常磐線の特別快速の130km/h運転や、TXの快速の140km/h運転にもう慣れてしまっているので……(^-^;

列車は大船まではこまめに停車していた印象ですが、大船を過ぎると小田原まではノンストップで8駅通過となり、俄然走りが特急らしくなりました。

乗っている列車が駅を次々とすっ飛ばしてしていく様はやはり気持ちが良いもので、在来線特急の醍醐味の一つでしょうね。

そして、特急列車は何よりも目的地に早く到達することに意義があるのだと再認識しました。

 

そういえば、僕以外のお客さんも比較的短距離で利用している方が多いのが少し意外でした。

僕が乗っていた車両が自由席というのもあったのかもしれませんが、小田原に着くまでにもけっこう客が入れ替わっていましたね。

「踊り子」号に乗る客は大抵熱海や伊豆方面への観光客なのかと思っていたので、小田原までの利用というのに若干申し訳ない気分も抱いたりしていたのですが、それは全くの考えすぎだったようです。

僕の前の座席に座っていた方などは、川崎から乗って大船で降りて行きました。

車内で特急券を買っていたので、座席の空き状況などを見て急遽乗ることにしたのかもしれませんね。

利用が50kmまでだと自由席の場合、B特急料金は510円なので、その区間普通列車グリーン車で行くよりも安くなるし、おまけに少し早く目的地まで行けるとなると、その方が得かもしれません。

そういう意味では、やはり185系の「踊り子」号は特急というよりも急行的な性格を持つ列車という気がしました。

 

小田原に近づいてくると、車窓から見える光景も緑が増えてきます。

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右前方には富士山の姿も。

富士山を見ると無条件でテンションが上がりますね。

 そうこうしているうちにも、「踊り子」号は快調に飛ばし、あっという間に小田原駅に到着。

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こうして1時間に及ぶ185系の特急「踊り子」号の旅が終了。

この後「踊り子」号は熱海・伊豆方面へと向けて発車していきました。

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ホームの反対側には快速「伊豆クレイル」号がお出迎え。

「伊豆クレイル」号は常磐線特急の「スーパーひたち」号として走っていた651系を改装して造られたリゾート列車で、運行中車内ではでは食事なども楽しめるそう。

近年こういうジョイフルトレインが本当に増えましたよね。

この列車も特に狙っていわけではなかったので、思いがけず遭遇出来てラッキーでした。

なんだかこの日は鉄道運的ツキがありました。

 

せっかく小田原まで来たので、改札を出て少し駅周辺をブラブラしました。

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小田原は箱根に近いし、駅やその周りの雰囲気は完全に観光地然としていますね。

外国人の観光客が多かったのが印象的でした。

 僕はと言えば、駅前散策も程々に、次なる目的のために久里浜へ向かうべくすぐホームに戻ることにしました。

 

185系電車はデビュー以来、昭和から平成、国鉄からJRと、東京口と上野口の変遷と歴史を見続けてきた車両。

国鉄がJRとなり、時代が昭和から平成になって、次々と新しい形式の車両が誕生し、東京口や上野口の列車の運行体系もすっかり様変わりしましたが、185系は変わらず愚直に走り続けたという印象です。

デビュー間もない頃こそ軽快で斬新なイメージの車両でしたが、今回乗ってみてその走りは「いぶし銀」と形容するのがふさわしく、まさしくそれは僕の好きな「急行」の姿でした。

もう、残された時間は少ないかもしれないですが、最後まで力強く使命を全うして頂きたいものです。

僕はもう一回くらいは乗りに行きたいですね。

 

ということで、今回はここまで。

次回は普通列車グリーン車の旅についてです。

「色彩を持たない多崎つくる……」で村上春樹デビューをしてみた

前回の記事からまた少し時間が経ってしまいました。

週1ペースで記事をアップしたいとは思うのですが、つい日々の生活にかまけてしまい気持ちがブログから離れてしまうもので……。

 ということで、今回は連休中でもあるし、ちょっと気合を入れて村上春樹の長編小説『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』について語りたいと思います。

(多少のネタバレも含むので注意!)

最後の方で、少し鉄道に関する話にもなります。

 

先日、村上春樹の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を読みました。

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この作品は、2013年(平成25年)に文藝春秋から出版された村上春樹13作目の長編小説です。

粗筋はざっくり言うと(かなりざっくりだが)、主人公の多崎つくるが大学時代に高校時代からの友人仲間から突然関係を一方的に切られてトラウマを負い、十六年の歳月を経てから恋人に促され、その出来事の真相を探るべくかつての友人仲間に会いに行くというもの。

心に傷を負った一人の青年が、傷を抱えつつも成長し、いつしかその傷を負う原因となった体験と正面から向き合って、それを乗り越えていくまでの心の軌跡を辿った成長と快癒の物語と言えそうです。

 

ところで、これまで村上春樹の作品はほとんど読んだことがありませんでした。

というか、村上春樹に限らず現代作家の作品自体ほとんど読んできていません。

過去の自己紹介の記事で文学が好きだったなどと書きましたが、自分が読んだのは近代から現代にかけて(時代的には明治から昭和の太平洋戦争後辺りまで)の作家で、その中でもさらに限られているので非常に限定的な文学体験しか経てきておらず、文学が好きだったなどと言うのは本当におこがましい限りなのですが……。

つまり、僕は村上春樹に関しては、特にアンチというわけでもなく、ほとんど関心が無かったというのがこれまでのところ。

それが何故村上春樹を読もうかと思ったというのには、ちょっとしたきっかけがありました。

それは偶々目にしたあるAmazonレビューです。

 

四、五年程前に非常に話題になったAmazonレビューがあります。

それは村上春樹の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』に対してのもので、レビューアーはハンドルネームで「ドリー」という人で、レビュータイトルは「孤独なサラリーマンのイカ臭い妄想小説」

ドリー氏は後に『村上春樹いじり』という本まで出しているそうですが、このレビューで彼は、村上春樹の特徴とされるキザとも言える文体や比喩表現と、主人公をはじめとする登場人物の鼻につくという「リア充」ぶりと「オシャンティー」ぶりを、これでもかというくらいに愚弄しているわけです。

 個人的に村上春樹の作品に思い入れは全く無かったし、そのネームバリューと作品の騒がれ方には多少の反発心さえあったくらいで、さらには、どちらかと言うと冴えなくて所謂「非リア」的な青春時代を過ごしたという自覚がある自分としても、特に腹を立てることもなく確かにそうだよなと共鳴できるレビュー内容に思え、「じゃあ、そんなにツッコミどころが満載であるならちょっくら冷やかしで読んでみるか」というのが、村上春樹の作品を読んでみるきっかけになったというわけです。

 ようするに、ドリー氏のレビューにまんまと釣られてしまったわけです。

 

ただ、村上春樹の作品は『色彩を持たない多崎つくる……』が全くの初めてではなく、まず1987年(昭和62年)に新潮文庫から出された『螢・納屋を焼く・その他短編』という文庫本の短編集を読んでみました。

何故これにしたかと言えば、単純にいきなり長編を読むのはしんどいと思ったからです。

(最近は面倒くさくてなかなか長編小説を読む気になれない)

そこで、取り敢えず短編を……ということでこれを選んでみたのですが、結果、村上春樹って結構面白いじゃんというのが短編集を読んだ時の素直な感想でした。

確かにドリー氏の言うように、文体にしても登場人物の言動にしてもキザでオシャンティーだなとは思いました。

僕には全く馴染みのないワインやらウイスキーやらの名まえだとか、ジャズやクラシックの曲名、レコードタイトル、演奏家の名まえなどが頻繁に出て来て、またそれが確かに洒落っ気たっぷりで鼻に付くのです。

しかし、読んでいるうちにその独特な文体と世界観にするすると引き込まれ、特に『納屋を焼く』という短編に強烈な印象を受けました。

これは村上春樹を読んだ人は大抵思うことかもしれないけど、村上春樹の作品の文体ってとにかく湿っぽい情緒性が一切排除されていてドライでクール。

だけど、そこには何となくどこかに血なまぐさい激情の渦が潜んでいそうな不穏さも感じさせるものがあって、そのような文体で描かれる世界は非常に謎めいていて、暗喩的で暗示的で、ちょっとナンセンスでもあり、「なるほど、これは嵌る人は嵌るだろうし、世界中でも読まれるわけか」と感銘を受けた次第です。

 そういう自分なりの下準備を経て、ようやく長編の『色彩を持たない多崎つくる……』を読んでみようということになるわけですが、それでも読み始めはまだ多少冷やかしの気持ちが残っていました。

ドリー氏のレビューでのツッコミを念頭に読み進めて行ったのですが、徐々にキザとも思える比喩表現も主人公の「リア充」ぶりや「オシャンティー」ぶりもほとんど気にならならないどころか村上春樹的世界の中ではごく自然なものに思えて来て、読む姿勢は至って真剣になって行き、気づけば作品の世界に完全に入り込んでおりました。

そして、時間も忘れて一気に読破。

 

つまり、僕は村上春樹ワールドに存分に酔いしれ、それを堪能したということです。

もちろん、それでも鼻に付くような場面や表現はあったし、「そりゃねぇーだろ!」的なツッコミを入れたい場面もありました。

例えば主人公の夢の中でのセックスの描写。

村上春樹の作品にはセックスの描写なんかもけっこう頻繁に出てくるようなのですが、『色彩を持たない多崎つくる……』でも、主人公のつくるが度々見る性夢の中でのセックスの描写が目を惹きました。

そして、その描写が僕には少々執拗で具体的すぎるように思えたし、またその性夢の結末が「ええーっ! なんじゃこりゃー! そう来るのか!」 という感じなのです。

ただ、それでも、夢って実際はそういうものなのかもしれないと思い直させる説得力もありました。

まあ、夢って時に驚くほど感覚的に具体的現実的で、かつ、エログロナンセンスだったりもして、普段の自分では全く思いもつかないようなあり得ない展開や状況を演出しますからね。

内容の如何は問わず、そういう夢の体験なら誰にでもあるとは思います。

そういう夢の掴みどころのない不可思議さもここでは描かれていたのかなと今では解釈している次第なのですが……。

 

村上春樹の作品は『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』と先に挙げた短編集を読んだだけなので、所謂村上春樹論的なもの語ることはとても出来ません。

ただ、村上春樹の作品は、読むと作品について語りたくなる謎解きの要素がかなりあるようで、僕もいろいろと語りたい気分になりました。

『色彩を持たない多崎つくる……』でも、例えば、作中に出てくる灰田という人物(主人公つくるの大学時代唯一の友人)は非常に謎めいているのですが、彼が一体何者で、作品の中で彼の存在にどういう意味があったのかとか、読んだ人は大抵皆考えたくなるのではないでしょうか。

この作品に関していろいろググってみると、感想や論評がいろいろ出てきますが、それだけこの作品には作品について語りたくなる要素があるということなのだと思います。

もちろん、これは村上春樹の作品に限らず、優れた文学作品全般に関して言える事だと思いますが……。

中には精神分析の観点から述べた学術的な考察もあったりして、心理学を少し学んだ自分としてはそれが最も面白くしっくり来ました。

 (興味のある方はこちらをどうぞ)

「『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』の精神分析的考察 —グループ心性とコンテイナーの機能—」 木部 則雄

 

自分としては個人的な印象や感想を述べるに留めておきますが、物語が進んで行くにつれて、特に後半つくるが過去に自分を一方的に関係から切り離した友人たちに会いに行くところから、彼の自己防衛的ともいえる構えや気取りが少しずつ解けていくような印象を受けました。

そして、終盤、主人公のつくるが友人の一人と会うために最終的に赴くことになった最後の巡礼の地とも言えるフィンランドから帰ってきてから、恋人の沙羅に対してのアプローチが傍目には大分稚拙になるのが印象的でした。

夜中の四時にいきなり電話して愛の告白をしてみたり、 後日会う約束をするのだけど、待ち切れなくて夜中にまた唐突に電話をかけてみるものの沙羅が出る前に切ってしまったり、さらには、それに対してかけ返してしてきたのであろう沙羅からの電話のコールにあえて出なかったりと、一人相撲的な駆け引きめいたことをしてしまう始末。

つくるはフィンランドに行く前に、沙羅が見知らぬ中年男と二人で楽しく談笑しながら歩いている場面を偶然目撃したりもしていたのですが、そのことが気になってヤキモキもしている様子だし。

でも、誰かを本気で求めるようになると、大抵皆こんな風になるのではないでしょうかね。

(ボクニモチョットオボエガアリマスヨ……)

なんというか、そこには、それまでのどこか一歩引いたところから世界を眺めているような、少し浮世離れしたクールでオシャンティーな多崎つくる君はおらず、微笑ましくなるほど人間味ある平凡な一個の男の姿があるように思いました。

僕はそこにある種魔法が解けてしまったような一抹の寂しさを感じたりもしたのですが、多崎つくるもようやく人心地を取り戻せたということなのかもしれません。

 

今回、村上春樹の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を読んで思いがけない嬉しいこと(作中で)もありました。

それは、物語の中で「鉄道」が結構重要な役割を果たしていたことです。

実は、主人公の多崎つくるは幼い頃から駅で列車の発着や人々の動きや流れを眺めているのが好きで、大人になってからは駅舎を作る仕事をしているという設定なのです。

これが物語を通してかなり重要なアクセントになっていたことは確かです。

物語の最後の方で、多崎つくるがJRの新宿駅甲府・信州方面へ行く特急列車の発着の光景を眺めながらいろいろと思いに耽っている場面があります。

そこで、定刻通りに発着する列車や人々の動きや流れを眺めながら、満ち足りた穏やかな気もちになったり、そこが自分の勤める鉄道会社の駅でないにも関わらず誇らしさを感じたりするのです。

実は個人的にここの場面が一番好きで、一番ほっとする場面でもあるのですが、ここは多崎つくるが自分の人生の原点に立ち返った場面のように僕には思えたのです。

これは私事になりますが、ここの場面は子ども時代の鉄心が復活したここ最近の自分の心境とも多少シンクロしているようにも思え、ちょっとした「縁」めいたものさえ感じてしまいました。

 

 駅は無数の様々な人生が交錯する場所で、多崎つくるがそのような場所をハード面から支える仕事をしているというのは、彼の「色彩」を比喩的に示していたようにも思います。

多崎つくるは高校時代から周囲の「色彩豊かな」友人たちと比較して自分を色彩を持たない空虚な入れ物のような存在と感じて生きてきたのですが、「色彩を持たない」というのは、言うまでもなく多崎つくるの無個性という主観的な自己認識の比喩なのでしょう。

また、「色彩を持たない」というのは彼の実際の個性の特徴も幾らか示してもいるのかもしれません。

多崎つくるは自分を関係から切ったかつての友人仲間と会っていく中で、友人たちが彼を「失って」から急速にバラバラになってしまったと知らされます。

多崎つくるはそこで駅(駅は一時的、あるいは、疑似的な「ホーム」の比喩とも言えるのかもしれない)のような役割を果たしていて、そして、それが本来の自分の個性だったことをそれまでの遍歴の末に発見できたのかもしれません。

 

……とまあ、そんなことをいろいろと考え語りたくなるなかなか良い読書体験でした。

本当はまだまだ語り足りないのですが、これ以上は収拾がつかなくなり記事アップの見通しが立たなくなりそうなのでこの辺にしておきたいです。

僕としては作中で鉄道がけっこう重要なアクセントとして出てきたのが意外で嬉しかったですね。

作中には「列車は見慣れたE257系だ。新幹線の列車のように人目を惹く華麗さはないが、彼はその実直で飾りのないフォームに好感を持っていた……」なんて文まであって、まさか村上春樹の作品の中でE257系にまで触れられるとは思ってもいませんでした。

もう、僕の中で村上春樹の好感度が急上昇しましたよ(笑)

 

『色彩のない多崎つくる……』を読み終えてから、ドリー氏のレビューを改めて読んだのですが、少しでもそのレビュー内容に共鳴してしまった自分がとても恥ずかしく思えます(笑)

ただ、紛れもなくそのレビューが村上春樹を読むきっかけにはなったので、ドリー氏には感謝しています。

 

ちなみに、本ブログタイトルである「無色透明」は今回の記事で取り上げた『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を意識したものではありません。

どちらかというと、誰色にも何色にも染まるつもりはないぞという意思表示(特に政治的に)という積極的なものです。

まあ、僕も多崎つくるのように自分を「無個性」だとは常々感じてきたし今も感じていますけどね。

 

今回はそんなところで。

太宰治と鉄道

前回まで鉄道に関するテーマでの語りが続きましたが、今回はちょっと趣向を変えて文学について語ってみたいです。
といっても、記事のタイトルから分かるように鉄道に大いに関係する話ですが。

 

学生時代、太宰治が好きで、太宰の作品ならほぼ全部一通りは読んだと思います。
太宰の作品の中にはけっこう鉄道が出てきますが、太宰作品に熱中していた学生時代は鉄道への関心を失っていた頃なので、そういう部分には全く着目することが無かったです。

ということで、今はそこに少し着目してみて太宰治の作品を取り上げ語ってみたいと思う次第です。


『晩年』という太宰治の初期の作品集に収められている『列車』という短編があります。
これは昭和8年(1933年)2月「サンデー東奥」に懸賞小説として掲載された作品で、太宰治というペンネームで発表した初めての作品であると言われています。
話の粗筋は、語り手である「私」が、語り手の友人の汐田から国元に送り返されるという憂き目にあっている汐田の恋人であるテツさんという少女を、わざわざ上野駅まで妻を引き連れて見送りに行くというもの。
小説は冒頭からこのように始まります。

「一九二五年に梅鉢工場という所でこしらえられたC五一型のその機関車は、同じ工場で同じころ製作された三等客車三輌と、食堂車、二等客車、二等寝台車、各々一輌ずつと、ほかに郵便車やら荷物やらの貨車三輌と、都合九つの箱に、ざっと二百名からの旅客と十万を越える通信とそれにまつわる幾多の胸痛む物語を載せ、雨の日も風の日も午後の二時半になれば、ピストンをはためかせて上野から青森へ向けて走った。時に依って万歳の叫喚で送られたり、手巾(ハンカチ)で名残を惜まれたり、または嗚咽でもって不吉な餞(はなむけ)を受けるのである。列車番号は一〇三。」

 

今改めてこの文を読んでみて、まず気になったのは記述が史実通りなのかだったので、少し調べてみました。

C51形の機関車ですが、これは実際に存在した蒸気機関車です。
1920年代から1930年代にかけて主要幹線で使用された初の国産機関車。

特急「燕」号やお召列車なども牽引したことでも知られ、所謂名機と呼ばれる当時の日本を代表する蒸気機関車です。

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(『小学館の学習百科図鑑31 特急列車』株式会社小学館 1982年 P129より抜粋)

ただ、梅鉢工場で造られたというのは事実とは異なるようです。
これはWiki情報ですが、C51形は1919年(大正8年)から1928年(昭和3年)にかけて浜松工場、汽車会社、三菱造船所で製造されたとのことです。
梅鉢工場とは、1933年(昭和8年)当時、大阪の堺市に本社のあった鉄道車両メーカー「梅鉢鐵工所(後の帝國車輛工業)」の工場で、当時は主に客車と路面電車が製造されていたそうです。
なので、客車関連は梅鉢工場で造られたという記述は事実である可能性が大いにあると思います。


列車番号103の列車というのも実際に存在しています。
103列車は上野と青森を結んだ急行列車の一つで、1930年(昭和5年)10月改正時のダイヤでは、上野を14時30分に発車し翌日の朝6時20分に青森に到着となっています。

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(『さよなら急行列車』JTBパブリッシング 2016年 P63より抜粋)

上の画像の表によれば、103列車の編成は二等と三等の客車で成り、二等寝台車と食堂車(和食)も連結されていたようです。
また、当時の急行列車には郵便車や荷物車も連結されるのが基本で「三等客車三輌と、食堂車、二等客車、二等寝台車、各々一輌ずつと、ほかに郵便車やら荷物やらの貨車三輌と、都合九つの箱に……」という部分も概ね史実通りとい言えそうです。

ということで、C51形が梅鉢工場で造られたという記述以外は大体史実通りではないかと思います。
おそらく、この小説を書くに当たり太宰治もそれなりに調べたのだろうなと思いますが、それ程徹底もしていなかった感じですね。


太宰治が鉄道好きだったかどうか気になるところですが、おそらく鉄道への思い入れは大して無かったのではないかと思われます。
夏目漱石などは割に鉄道好きだったそうで、作中にも汽車旅での場面がしばしば出て来て、何となく鉄道好きを匂わせるような箇所もあるのですが、太宰治の場合はあまりそういう印象は感じられず、作中に於ける鉄道の扱いは淡白とも言えます。
むしろ、『列車』などでは、鉄道への(というより103列車へか)恨み節とも思わせる言葉が冒頭の文から続いて書かれてあったりもします。

「番号からして気持ちが悪い。一九二五年から今まで八年も経っているが、その間にこの列車は幾万人の愛情を引き裂いたことか。げんに私が此の列車のため、ひどくからい目に遭わされた。」

もっとも、小説という虚構の世界の中での語りなので、作中の語り手の言葉がそのまま作者の思いを表しているとは限らないのですが、鉄道好きなら虚構といえども多分こういう書き方はしないのではないかと思いました。
太宰治の場合、後の様々な作品や伝記的事実から察するに、鉄道での汽車旅は辛い状況や苦い思い出に付随することが多かったのかもしれません。

 

太宰治が生きたのは明治の終わりから昭和の戦後間もない頃までですが、特に太宰治が作家として生き始めた昭和の戦前期は、鉄道にとって戦前における鉄道黄金時代と言われた時期だそうです。
鉄道網が日本全国だけでなく海を越えて大陸にまで張り巡らされるようになり、今や鉄道は人々の移動手段としてすっかり定着し、技術や旅客サービスも飛躍的に向上した時代。
鉄道は近代化の象徴で、軍需物資や軍事要員の輸送など国策にも大きくかかわる国の基幹産業とも言われ、人々の移動手段としてのマイカーや飛行機もまだまだ考えられなかった時代。
人々の移動や物流などにおいて鉄道の重要度は今とは比べ物にならない程大きかったことは何となく想像がつきます。
そんな時代、鉄道は当時を生きた作家にとっても、好む好まざるに関係なく、人生に切っても切り離せないものだったに違いありません。
おそらく太宰治にとっても。


と、そんなことを考えながらここまで記事を書いて、ふと気になったことがありました。
『列車』の中で太宰治は何故作中の登場人物テツさんを「テツ」という名前にしたのかなと。
これはひょっとして鉄道に掛けたのだろうかと。

太宰治にも鉄道愛はけっこうあったのかもしれませんね。

 

153系の思い出「山陽路快速」

前回の記事の最後に触れたとおり、今回は153系最晩年の山陽路快速に関する思い出を語ってみようと思います。

 

僕は153系の急行列車や新快速ブルーライナーに乗ることは出来ませんでしたが、153系自体には一度だけ乗ったことがあります。

いや、厳密に言うと一度だけ乗ったことがあるような気がします。

というより、乗っていたら良いなあという願望(^-^;

そんな曖昧模糊な頼りない記憶を元に、153系最晩年の山陽路快速の思い出を語ってみようかと思う次第です。


まずはざっと概要を。

1975年(昭和50年)の山陽新幹線博多開業に伴い、山陽本線の岡山・大阪発着の昼行特急・急行は全廃されます。

それによって急行運用から外れた153系は、一部は電化間もない房総地区のディーゼル急行の置き換え用に転出し、残りは広島地区(岡山-下関)の快速運用の任に就くこととなります。

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(「鉄道ピクトリアル」2018年4月号P7より抜粋)

 

これが今回の話の主役である153系の山陽路快速なわけですが、この山陽路快速の153系も1980年代に差し掛かると、新快速ブルーライナー同様、車両の老朽化が目立ってきます。

また、この頃から広島地区では、普通列車の輸送体系改善のためにフリークエントサービス(書籍によってはフリーケントサービスと表記)という等間隔高頻度のダイヤ導入が検討されるようになり、その整備のためも含めて新製車での古い車両の置き換えが計画されます。
そして、最終的には115系3000番台を新製投入して153系や古くなった一部の111系が取り替えられることになり、1982年(昭和57年)11月のダイヤ改正において広島地区の153系は全廃という運びになるわけです。
一方、広島地区から153系の一部が転出した房総地区でも、1982年(昭和57年)11月のダイヤ改正により、153系が運用から撤退しており、東京口京阪神地区など他の線区で運用されていた153系もこの頃までにはすでに定期運用から退いています。

厳密には1983年(昭和58年)まで中京地区でまだ運用が細々と残っていたようですが、1982年(昭和57年)は事実上の153系終焉の年とも言えるのかもしれません。

 
ここからは私事になりますが、父の実家が広島県の大竹で、子ども時代は毎年のように夏休みなどに家族で大竹に帰省していました。
僕にはこの帰省というイベントが本当に毎年の楽しみでした。
というのも、祖父母や親戚に会えるということはもちろんですが、帰省するために普段はあまり乗れないような列車に乗ることが出来たからです。
新幹線に乗れるのも大きな魅力でした。

僕にとってはそんなスペシャルな列車に乗れる興奮と常にセットになっていた帰省という一大イベントでしたが、一度大竹から山口県の方へ祖父母と家族で一緒に行ったことがありました。
どういう目的で行ったか今となっては定かではないのですが、山口には父方の叔父の一家が住んでいて、冬休みに大竹に帰省して年末年始を過ごした後、山口の叔父の家に遊びに行こうという話になったのだと思います。

その時に山陽本線の大竹駅から小郡駅(現在の新山口駅)まで乗ったのが快速列車で、それが件の153系の山陽路快速だったのではないかというわけです。


いろいろと記憶を手繰り寄せてみると、その快速列車に乗ったのは1982年(昭和57年)1月頃だったはずで、時期的にはまだ153系が運用されていたことになります。

この時のことは記憶がかなりあやふやで怪しいところですが、大竹駅に快速列車が到着した際に見た電車の前面は、153系の特徴である全面オレンジ色だった気がするのです。
当時はまだ車両の形式などの知識は無かったし、急行形と近郊形の区別さえもよくついておらず、湘南色に塗られた電車は皆113系(ちなみに当時の僕は113系京阪神地区で快速として運行されていたことから「快速電車」と呼んでいた)だと思っていたくらいです。
だから、よく見慣れた113系の塗装とは異なる前面の塗装がかなり奇異に感じられたし、そういう記憶が確かにあるのです。

この辺り、もう1歳くらい年齢を重ねていれば、もう少し記憶もはっきりしていたに違いないのですが……。

 

その日の行程は、午前中に大竹駅を出発して昼過ぎに小郡駅に到着という具合だったと思います。

乗ったのが快速列車だったのは確かで、途中駅の通過があったこともはっきり覚えています。

その辺の所をもう少し詳しく確かめてみたいと思い、1980年(昭和55年)の時刻表を当たってみました。

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少々見ずらいかと思いますが、この画像はJTBパブリッシングの1980年(昭和55年)10月号の時刻表復刻版から抜粋したものです。

(この記事を書くためにわざわざ購入しました)

次の大規模改正が1982年(昭和57年)11月なので、同年1月頃なら広島地区はまだ概ねこのダイヤで運行されていたと推定します。

この時刻表のページ一番左側の列車が当時僕が乗ったと思われる快速列車です。

列車番号3123M、10時25分広島発14時16分下関着の快速)

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この列車を見てみると、大竹駅を11時2分に発車し小郡駅に12時58分に着いています。

これなら時間的にも自分の記憶とも何となく辻褄が合う気がします。

 

もっとも人間の記憶というのは当てにならないもので、もしかしたらかなり記憶違いをしている可能性も大ですが……。

あと、当時115系3000番台投入など車両の整備は1981年(昭和56年)から段階的に行われていたようで、快速列車が必ずしも153系で運行されていたとは限らないようです。

その辺り、もう少し詳しくしっかりと検証したいところではありますが、取り敢えず今は願望も含めて153系の快速列車に乗ったということにしておきたいです。

 

ちなみに、当時のことで比較的はっきりと覚えていることがあります。
前々日だかにけっこうまとまった雪が降って、車窓から見える家屋の屋根には少し雪が残っていたことと、当日は良く晴れていて、途中、車窓から目にした日光がキラキラ反射している瀬戸内海がとても美しかったことです。 

車内も幾分音が静かであったと記憶しています。

(153系等の急行形は車両両端のデッキと座席のある客室が仕切られているので、その遮音効果によるものだったとも考えられるか……)

座席はもちろんボックスシートでした。

ともあれ、車窓を流れゆく風光明媚な瀬戸内の風景を眺めながらの旅情溢れる楽しい乗車体験だったことは確かです。

 

153系は僕にとって世代的には辛うじて手に届いた伝説に彩られた車両です。

全盛期の昭和三十年代には、特サロとサハシ(ビュフェ車)2両ずつを編成に組み込んだ長大編成で東海道を駆け抜け、ビュフェ車では寿司カウンターが営業され大盛況だったと言います。

全盛期当時の写真を見るにつけ、そんな夢のような話が実際にあったのだと感嘆しきりですが、晩年は高度成長期を経て社会状況も大分変わり、急行列車自体も衰退の一途を辿り、153系の置かれた状況は尻つぼみ的な寂しいものだったようです。

それでも、晩年当時の153系やそれを含めた急行形の車両は、今となっては古き良き時代の汽車旅情緒を当時に伝えていた貴重な存在だったようにも思えます。

その後、そのような急行形というスタイルの車両が急速に廃れていくようになったのは、世の必然だとしても、非常に惜しむべきことに思えます。

153系の思い出 「ブルーライナー」

2018年4月号の鉄道ピクトリアルは153系電車の特集でした。

117ページに及ぶ充実の内容で、非常に読み応えがありました。

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ということで、今回は153系に関する個人的な思い出を語ってみたいと思います。

といっても、昭和三十年代に東海道筋で準急・急行列車として活躍していた全盛期をリアルタイムでは知らず、新快速ブルーライナーを主とした晩年の姿を僅かに記憶に留める程度なので、薄く曖昧な記述となる事を予め断っておきます。

 

新快速は、京阪神区の速達サービス向上の為に、1970年(昭和45年)に京都-西明石間に設定されたのが始まりでした。

設定当初は近郊形の113系での運用でしたが、1972年(昭和47年)の山陽新幹線岡山開業時に大阪-岡山間の急行運用が廃止されことで捻出された153系に置き換えられます。

この時に、淡いクリーム色の地にブルーの帯というスマートな塗装デザインを施され、ブルーライナーという愛称で定着していくことになるわけです。

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運賃のみで冷房を完備した急行形の速達列車に乗れるということで、新快速ブルーライナーは大変好評を博したそうですが、1970年代の終わり頃には早くも設備の老朽化や陳腐化が問題となり、新型車両での置き換えが計画されます。

鉄道ピクトリアル2018年4月号によれば、新快速は1980年(昭和55年)1月より新型の117系への取替が始められ、同年9月には完了しているとのこと。

つまり、ブルーライナーは1980年(昭和55年)の9月頃まで走っていたということになります。

 

ここからは私事になりますが、僕は1978年(昭和53年)から1985(昭和60年)年まで兵庫県の西宮市に住んでいました。

1978年はまだ三歳で記憶がほとんどないため、僕が実質ブルーライナーを見たと言えるのは、記憶がかなりはっきりしてくる1979年から1980年の運用最末期の頃と言えます。

まさに滑り込みセーフでブルーライナー見ることが出来たわけです。

 

当時、僕の一家は父が務める会社の社宅を住いにしていて、国鉄の最寄り駅は甲子園口でした。

夏休みに親の実家へ帰省する時などは、新幹線に乗るために甲子園口から各駅停車で新大阪に向かったりしました。

その際、駅での待ち時間中などにブルーライナーが通過していくのを目にしたことを今でもはっきりを覚えています。

また、当時、日曜日によく父と武庫川の河川敷を歩いて鉄橋を通過していく列車を眺めに行ったりもしたのですが、そんな時にもブルーライナーの姿を見た記憶があります。

 

颯爽と走り去っていくブルーライナーの姿は幼心にも強く印象に残りました。

四歳とか五歳くらいの男の子なら大抵は乗り物に興味を持ち鉄道が好きになると相場が決まっていますが、ご多分に漏れず僕もそうだったし、僕の周りの男の子たちもそうでした。

そして、そういう子どもたちの憧れの的は、特急列車だったり新幹線だったりブルートレインだったりしたのですが、僕たちの場合、そこに新快速も加わっていました。

関西では、僕たちのような幼い子どもたちの間にも、当時から新快速は速くて格好良いというイメージが浸透していたように思います。

それだけ、沿線の住民にもたらしたブルーライナーのインパクトが大きかったということなのかもしれません。

 

そんな新快速ブルーライナーですが、残念ながら乗る機会はありませんでした。

117系になってからの新快速はけっこう乗る機会があったのですが、ブルーライナーは乗った記憶がないのです。

そのことに関して一つ忘れられない思い出があります。

新快速が新型の117系に置き換えられてから間もない頃だったでしょうか。

家族で姫路城を観に行くことになりました。

三ノ宮までは西宮北口から阪急電車で行き、三ノ宮から国鉄の新快速に乗り換えるという話しになりました。

 

余談ですが、当時、父はあまり国鉄を利用したがらず、利用するのは本当に必要最小限という感じでした。

それは、住いが国鉄甲子園口駅よりも阪急の西宮北口駅の方が距離的に近かったということもあったし、何よりも国鉄は運賃が割高だったからです。

昭和50年代は、国鉄が抱えていた巨大債務が社会問題となっていた頃で、大幅な運賃の値上げなども行われていました。

もちろん、僕はそんな大人の事情を知る由もなかったのですが、当時父が「国鉄は高いからなあ…」とぼやいていたことは記憶しています。

そんなこともあって、僕にとっては、ブルーライナーはおろか、国鉄自体ちょっとした高嶺の花だったわけです。

 

そういうことで、未だ新快速が117系に置き換えられたという事実を知らない僕は、それはもう胸を高鳴らせながら153系のブルーライナーを待っていたわけです。

ところが、やってきたのは見慣れぬ顔の117系

「なんで? 新快速とちゃうやん!」

その時、僕はそんな風に口にしたのかもしれません。

その後、父から新快速は新型車両に置き換えられたという事実を聞かされ、人生で味わう初めての大きな喪失感(大げさ)を胸に、僕は117系に乗り込んだわけです。

 

ただ、117系も名車なんですよね。

 117系は当時の大阪鉄道管理局が、競合する私鉄に対抗すべく国鉄の威信をかけて送り込んだ新型車両だったわけで、転換クロスシートがずらりと並んだ特急列車と見紛うばかりのピカピカな車内には否が応でも気持ちが高まりました。

そんな117系の新快速は沿線の利用者にも非常に好評だったようで、利用した時はいつも混んでいたように思います。

 

117系には何度もお世話になったし、思い出深い車両の一つなのですが、やはり新快速=ブルーライナーと刻印づけされている僕は、未だに新快速と言えば真っ先に153系のブルーライナーの姿を思い浮かべてしまうのです。

運用最末期のブルーライナーに乗ったという人の話によれば、車両はかなりガタピシで、けっこう揺れも酷かったといいます。

それでも、颯爽と駆け抜けていくブルーライナーに、一度で良いから乗ってみたかったです。

 

今回はここまで。

次回も153系について少し語りたいと思っています。

153系最晩年の山陽路快速について、幾らかの願望も含んだ淡い記憶を辿って行こうと思います。

国鉄時代の普通列車グリーン車の思い出

今回の記事は前回の記事の続きに書こうと思っていた内容で、国鉄に関する子ども時代の思い出話を少ししようと思います。

国鉄末期の1980年代の半ば、僕はまだ小学五年生で、父の仕事の都合で住いが関西の兵庫県から関東の神奈川県に移ったことがありました。

それと共に、目にするようになった鉄道風景もそれまで関西で見ていたものとはがらりと変わったように思います。

私鉄はもちろん、同じ国鉄と言えども地域による特色の違いは少なからずあり、それまで図鑑でしか目にしたことのなかった横須賀色の111・113系185系の特急踊り子号などを見かけると、ああ関東に来たんだなあと実感したものです。

 

引っ越して間もない頃、東海道本線横須賀線を行き交う普通電車を眺めていたときに一つ驚いたことがありました。

それは、普通・快速列車全てにグリーン車が連結されていたことです。

(現在では、東北線高崎線常磐線の普通・快速列車にもグリーン車が導入されているが、当時、首都圏では東海道本線横須賀線総武快速線のみだった)

それまで普通列車グリーン車を実際に見た記憶が無く、また普通列車でもグリーン車が付いているものがあるという知識もなかったので、グリーン車は新幹線や特急・急行列車に付いているものだという固定観念を抱いていました。

だから、普通列車グリーン車が付いているということが不思議に思えたのです。

また、十両を超える長い編成中に連結されている2両のグリーン車は、普通列車にもある種の風格を持たせているように思えて、さすがは東京だと感心もしたものです。

 

そして、いつしか、普通・快速列車のグリーン車は憧れの的となりました。

車両側面の小窓から覗く、背もたれに白いリネンのかかったえんじ色のロマンスシートが整然と並ぶ光景には神々しさすら覚え、それを眺めてはため息をついたものです。

もっとも、当時の普通・快速列車のグリーン車に使われていた座席は、特急列車の普通車に使われていたものと同程度の簡易リクライニングシートで、さほど豪華でもなかったようですが、特急列車や新幹線でなくてもそういう座席に座れることにかなり特別感があるように思いました。

普通列車にアッパークラスの車両が付いているというシチュエーション自体に、今風の言い方をすると、「萌えた」ということになるのでしょうか。

えんじという統一された座席の色も特別感に一役買っていたように思います。

親にも何度か普通列車グリーン車に乗せてくれとねだったりもしたのですが、そんなものに高いお金を払うのはバカバカしいと一顧だにされませんでした。

(残念😢)

 

ちなみに、それまで住んでいた関西でも、1980年頃まで東海道山陽本線(現在の神戸線区間)を走る普通・快速列車にグリーン車が連結されていたそう。

僕もそれを目にする機会はあったはずなのですが、記憶は全くありません。

おそらく、1980年頃はまだグリーン車という概念を知らず、グリーン車を見てもそれをグリーン車と認識出来ずに記憶に残らなかったものと思われます。

その頃の僕はまだ幼過ぎたのか、前面は同じ東海顔だった急行形電車と近郊形電車の区別すらよくついていない程度の認知と理解だったので、まあ、無理もなかったかもしれません。

 それでも、同じく同区間に1980年まで走っていた153系の新快速ブルーライナーのことはよく記憶に残っていますが、それはきっと特徴的な塗装デザインにかなり強い印象を持つことが出来たからだと思います。

 

話を普通列車グリーン車に戻すと、結局、その後もずっと普通列車グリーン車に乗ることはありませんでした。

中学に入ってからは、鉄道への関心が薄れてしまい、普通列車グリーン車への憧れの気持ちも薄れ、乗ろうとも思わなくなってしまいました。

自分が初めて普通列車グリーン車を利用したのは、本当につい最近のことです。

(その時のことも、いずれ記事にしようかと思っています) 

 

国鉄時代、僕にとって憧れの的だった普通列車グリーン車がこちら。

 

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(『最後の国鉄電車ガイドブック~今、振り返る国鉄時代ラストを飾る360形式』P48より引用)

書籍からの引用なので控えめに載せますが、これが当時よく見かけたサロ110形1200番台。

東海道本線横須賀線の普通・快速列車に使われていた111・113系電車のグリーン車を代表する形式です。

これは横須賀線で使われた横須賀色のサロですが、もちろんオレンジと緑の湘南色バージョンもありました。

 

ところで、「代表する」としたのは、111・113系グリーン車にはこれ以外にいくつかのタイプがあったからです。

それらをいくつか挙げておきます。

まずは、111系のデビューと共に登場した111・113系グリーン車の基本形とも言えるサロ111形0番台。

急行用のサロ153形から改造されたサロ110形0番台。

また、横須賀線総武快速線用に新製投入されたサロ113形1000番台。

(このサロ113形は一時期関西方面に転属して使われていた時期もあるようです)

さらには、特急形のグリーン車から改造されたサロ110形300・350番台、急行形の普通車から改造されたサロ110形500番台などという変わり種もありました。

 

僕の記憶が正しければ、上記の車両は全て実際に目にしているはずです。

特急形から改造されたサロ110形300・350番台などは車体の高さが異なっており、見た感じかなり違和感があったことを覚えています。

 

ちなみに、上記のサロは前回の記事で紹介した『最後の国鉄電車ガイドブック~今、振り返る国鉄時代ラストを飾る360形式』でもカラー写真入りで紹介されています。

 

これらのグリーン車の多くは国鉄の民営化間もなく廃車されていますが、今となっては、どのタイプにも乗ることが出来なかったのが残念ですね。

画像のサロ110形1200番台は2006年まで使われていたようなので、その気になれば乗れたのですが、僕の鉄道熱が再燃したのはここ二三年のことなので、残念ながらその機会を持つことは叶いませんでした。

今はその未練を晴らすかのごとく、機会があればなるべく普通列車グリーン車を利用するようにしています。